テレ朝のドラマ『遺恨あり』を観た母が読みたいというので,近くの書店で原作,吉村昭『敵討』(新潮文庫)(のうちの原作は「最後の仇討」)を購入したところ「全然違う。やはりドラマは脚色しちょるねぇ」。
それはそうだろう。
原作の筋をただ再現するドラマなど,観ていて退屈だろう。
すでに知っている粗筋をただ確認するのは原作や主演のファンには楽しいかもしれないが,鑑賞ではない。
原作の枠を借りながらも,独自の視点を提供しない限り,原作と「独立の作品」とはいえない。
ずいぶん以前のことになるが,最近亡くなった和田勉(当時NHKディレクター)が
「ドラマの原作を選ぶ時には,読んでみて,出来るだけツマンナイ作品を探す」といっていたのも
この意味,独自の意匠を挿入できるスキのある作品の方がドラマの原作としてはちょうど良い,と理解した。
実際,ドラマ『遺恨あり』は,幼少時に両親を撲殺された主人公が,明治維新後,仇討ちが禁止されて以降も,執拗に仇敵を追究するプロセスが,一方で時代の変化に対応し主人公を宥める親族との関係,他方で撲殺場面に遭遇し後に資産家の妾になった後も仇討の資金援助を続ける元下女との関係の両面から描き出している。また上京時に門下生として抱えた山岡鉄舟の剣術に止まらない指導も主人公の仇敵活動を支えていた。
ところが,原作の方は,仇討ちを禁止する明治という時代を周囲の人々がどう受け入れたか(「あとがき」による)に力点が置かれ,ことの経過が淡々と記述されているにすぎない。
時代の変化を描く原作に対して個人レベルの人間ドラマではモチーフが全く異なる。
これを「脚色」というのは酷だ。
しかし,原作が「後書き」に記されているように当時の人々が明治維新という時代の変化を如何に受け容れていったかというモチーフが充分描かれているか,はまた別問題である。
例えば,原作では仇討を郷里,旧秋月藩の人々ばかりか,世間の人々も暖かく受け容れた(祖父は「ことのほか喜」んだ,「世上では,十二年の苦難の日々をへて仇を討った六郎を「孝子の鑑」として賞めたたえ」た)と記されているが,そもそも「仇討禁止令は法律関係者のみが承知しているだけと言ってよく,一般にはほとんど知られていなかった」というのだから当り前の反応で,「明治という新しい時代を迎えた日本人の複雑な心情を描」(「あとがき」)いたことにはならない。
ちなみにドラマでは主人公も仇討が禁止になったことは弁えており,親族始め周囲も主人公が仇討を取ろうとすることを諫めている。だからこそ,それを抑えて仇討を追究したのはなぜか,と視聴者の関心を惹く。
また原作では,一旦東京に出た主人公が,相手が裁判所の甲府支庁長として勤務していると聞きつけて,甲府に赴いたものの,1ヶ月経っても遭遇できず,東京転勤との噂を聞いて東京に引き返している。その経過自体は事実かも知れないが,支庁でも宿舎でも遭遇できないで主人公はどのような気持ちになったか,遭遇できない理由を考え別のルートを当たるとか更に探りを入れるとかしなかったのか,転勤の噂を吟味しなかったのか,情景描写が全くない。
この点もまたドラマでは,主人公は郷里でに遭遇したもののその勢いに圧倒された場面や,東京でも帰宅時に遭遇したものの,迎えに出た妻子を目の当たりにして逡巡した場面が描かれている。
時代の変化に押し流される周囲との軋轢に絶え,あるいは軋轢を避け,
仇敵になかなか遭遇できない中で計画の遂行に種々ためらいや不安を覚える。
そういう個人レベルでの描写がない限り
資料を読んでいる気分を覚えても,「新しい時代を迎えた日本人の複雑な心情」を鑑賞している気分にはならない。
これではドラマの方が「脚色」したのではなく「創作」した原作者ではないか,とさえ思える。
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