2022年12月18日日曜日

生産論独自の意義・その1

  先週初め,酷い頭痛がして寝込んだ。
 熱が出たらコロナ検査キットを申し込もうとさえ思ったが,体温は一向に上がらず,静穏1日半で復帰した。ジム復帰には3日くらい要した。
 今から思うと過労だった。
 

 打って変わって今週は授業準備,後処理だけで終わった。
 一仕事終えた,と思ったのか,しばらくアイデアは浮かんでも文章にする気がしなかった。

 今回の仕事を振り返ってみると,生産論について改めて考えさせられた,ということだ。

 生産論とは,宇野弘蔵経済原論の一構成だ。
 『資本論』では冒頭商品論で,2商品の交換関係から価値の実体として抽象的人間労働を抽出したのに対して,資本の生産過程における抽出を主張した。
 商品交換とは,貨幣による交換であり,物々交換ではないこと,
 冒頭で価値実体が抽出されたため,続く価値形態論(第1章第3節)では,価値形態IIの逆転による価値形態IIIの導出など等労働量交換が保証されたかのよう展開となり,「貨幣の謎」(商品が貨幣になると商品とは対照的な直接交換可能性を取得すること)解明がむしろ阻害されることになったこと
が主な理由であった。
 宇野は,『資本論』では第1部「資本の生産過程」で展開されていた商品,貨幣,資本の分析を,社会的生産過程を前提にしない私的流通主体の行動を分析する流通論として分離独立させ,それ以降の叙述および同第2部を生産論の中に組み込み,基本的に同3部に当たる分配論と合わせて3篇構成とした。

 そのため,生産論の意義は,第1篇商品と貨幣および第2篇貨幣の資本への転化(第1章商品から第4章貨幣の資本への転化)を流通論として独立させたことに力点を置いて理解されていた。
  言い換えると,生産論独自の意義は余り意識されてこなかったように思う。
 今回の仕事,秋の学会報告の準備およびその後ののまとめでは,その独自の意義を考えさせられた。


 

 ,


ないので
  

2022年11月26日土曜日

2,3週間過ぎた

 10月下旬,ジョブ型雇用に関する解説論文の執筆を終え,次の仕事に向かうことにしたが,その後,堂々巡りを続けたからだ。

 10月初旬の学会報告は,すでにその1ヶ月半前には予定稿を提出していたので,後は説明を寄り詳しくするだけのように思っていたが,そう簡単ではなかった。

 予定稿以降,報告当日まで報告用スライド,あるいは配布資料を作る過程で再認識したことは,今回の報告の理論上の意義は「生産論の再発見」にある,ということだった,

 生産論は宇野弘蔵が『資本論』を批判的に検討した結果,提示した経済原論の三篇構成の1つだ。
 『資本論』が冒頭商品論で価値の実体を抽出したのに対し,商品,貨幣,資本の諸章を社会的再生産との関連が保障されていない流通主体の純粋に私的な行動展開を分析する場,「流通論」に限定すると同時に,『資本論』1部の労働生産過程論以降,および第2部資本の流通過程を,資本が生産過程を包摂する態様を分析する「生産論」として独立させた。

 したがって,生産論は宇野の着想を継承する論者の経済原論には存在するものの,『資本論』および資本論体系を忠実に,あるいは基本的に受け継ぐ論者の経済原論には生産論という構成は存在しない。

 これに対して,剰余価値論の余剰論への組み替えを主張する論者の場合,その経済原論のテキストには生産論が存在するものの,実際の展開では余剰の発生を総労働T>労働者全体で取得する総生活物資Btと階級単位で説き,個別資本の行動に即した説明をしていない,また余剰発生をT,tと労働時間単位で叙述するに止まり,価値の移転,再生産として語っていないため,流通形態論ないし流通論と生産論との接点が示せないでいる。いわば「宙に浮いた生産論」になっている。

 そこで,生産論の積極的意義を今一度開示することにしようとしたわけだが,そこで躓き逡巡が始まった。生産論の意義は広範に亘り,取り上げるためには相当の準備が必要だ。
 どこまで踏み込むべきか,だけで2,3週間費やすことになった。


2022年10月30日日曜日

野下先輩

  地元紙に載せるジョブ型雇用の解説論文,10月25日の締め切り当日に投函した。

 学会報告後,しばらく,手に付かなかった。
 報告疲れもあったが,報告予定稿を投稿した8月25日以降,報告の1,2週間前までの1ヶ月半の間にほぼ7,8割方,原稿を埋めており,残り2,3割の短い叙述で説明が十分でない箇所を埋める補完的作業に気が乗らなかったのだ。
 実際に着手してみると,準備不足で下調べが必要な箇所や構成の細部見直しもあり,最終局面では見直し,補正が終わらないうちに投了,となったが。。。

 脱稿後,再び気が抜けている間に想像もしないニュースが飛び込んできた。
 大学院時代にお世話になった野下保利さん(国士舘大学政経学部教授)逝去の知らせを学会MLで受け取った。

 大学院時代,野下保利さんは金融論の深町郁彌先生の研究室に属する助手を務められつつ,逢坂充先生の経済原論演習にも参加されていた。
 研究手法は異なっていたが,テーマも視角も狭くなりがちな自分に声を掛けてくださった。
 野下さんとは研究室で,下宿で,また箱崎,なぜかたまに春吉のスナックでいろいろ議論した。
 そのテーマは,時節柄?恐慌論,価値論中心だったように思うが,詳細は全く思い出せない。
 頭脳明晰かつ勉強も広くされていた方で,全く歯が立たず,子ども扱いだったように思う。

 山形大に赴任した後,東京での研究会に誘ってくださったので,出席してみると,野下さん自身はいらっしゃらず,面識のない先生方ばかりで当惑した思い出がある。

 また,国士舘大が各地に持つ父兄会?の東北行脚の際,山形にも立ち寄られたので,駅前の居酒屋にお連れしたところ,「地元の美味しい店全く知らないんだなぁ」と呆れられたことがある。
 その後は,年1回の学会でたまにお見かけしては挨拶する程度だった。
 金融不安定性について研究され,ミンスキーの訳本も出されていたが,こちらの関心と異なっていたためでもある。
 数年前の学会懇親会の場で知人に紹介するのに「こいつは経済原論の枠組みに浸っている」という趣旨のお言葉を頂いたのが最後であった記憶がある。

 今でいうぼっち族の自分にとって,野下さんは大学院時代最も親しく接しさせていただいた先輩,あこがれの大先輩であった。

  パイプを咥えた野下さんのお顔は今でも忘れられない。
 ひたすらご冥福をお祈りする。








2022年10月12日水曜日

報告記録

  10月8日経済理論学会第70回大会(東京経済大)の分科会で報告した。
 報告が分科会コーディネータ,司会者のY氏より学会誌の大会記録に載せるため報告と質疑の記録提出を求められたが,学会中は報告の疲労と安堵で質問票に目を通していなかったが,大会明けの祝日,早速目を通して記録を作成した。600-700字以内,報告部2/3,質疑1/3程度という制約のためで何度か書き換えた。


 本報告は小幡道昭氏が論文「マルクス経済学を組み立てる」で提唱した剰余価値論の余剰論への組み替えを,(1)資本主義における搾取の説き方,(2)価値と労働との関係づけ,(3)経済原論体系への影響の3点に亘って検討し,(1)生活物資(労働力)Btと支出労働量Tとの弾力的関係から余剰(T>Bt)発生を説く普遍的余剰論に止まり,個別資本の行動に即した説明を欠く,(2)価値と労働とは価格・労働時間両タームとも階級単位の集計値で照合されている,(3)流通形態資本による社会的生産の包摂を背景に価値と労働の関係づけがなされるからこそ社会的生産を予定しない流通形態の分析が流通論として『資本論』第1部「資本の生産過程」から分離した。両者の関係づけが流通形態である資本によらずに階級単位で済まされるならば,流通論と生産論の別が維持できない。生産論が階級単位で叙述されたため,同じ個別資本に即しながら労働者に向かうか他の資本家に向かうかという生産論と機構論との位相差も曖昧になっている,と結論した。
 コメンテーターE,K1会員,K2会員,司会者Y会員より大要3点質問;1)生産論=代表単数の意味(個別資本や階級単位との違い),2)特別剰余価値概念の意義(機構論の特別利潤概念で十分),3)従来の生産論に止まる,余剰論(労働力の本源的弾力性)の意義は近経や転形論争との関連で評価すべき。答弁;1)単数ではなく競争捨象,2)資本が操作しえない相対的剰余価値に繋ぐ概念,3)生産過程論再構成により労働の多様性を設定しようとしている。 

 今回報告したことにより,自分と周囲との問題に対する理解の齟齬が第3点、価値と労働の関係づけにあることがよくわかった。
 また,2日目昼休み、分科会には参加されていなかったK3先生から第1点について質問を受け,代表単数についてもさらに説明が必要であることもわかった。
 これらを念頭にさらに練ってゆきたい。


2022年9月28日水曜日

穴を塞ぐ

  8月末,学会報告の予定稿を提出して以来この方,10月下旬締切りのもう1つの原稿,解説論文の執筆に取りかかってきたが,先週末には勝手に「山は越した」と学会報告の準備に戻った。

 まず最初に,配付資料の原案をコメンテーター及び分科会司会者に送った。
 準備再開早々送ったのは報告直前ではお二人の先生が困惑されるだろうと考えたからだ。既に報告本文,同要旨は学会HPで公表されているとは言え,実際の報告に用いるスライド配付資料が手元にないとコメントの準備が進まないだろう。
 また,8月中旬の仙台経済学研究会で報告しており,スライドの原案もある。

 順番は逆のようだが,既に報告の構成は報告本文を提出した時点で確定しているので,スライドで文字表現されていない部分を詰める形で報告準備しようと考えたのだ。

 しかし,報告スライドは所詮,各パートの結論を箇条書きにしたようなものだから,スライドを前提にすると,報告本文には説明が足りないところは多々ある。

 多々,の最たるものは,
1)経済原論における生産論=代表単数という位置付け
2)余剰論の特徴としてあげた3点(a.資本主義における搾取が労働と生活物資との間の本源的弾力性という普遍的な事実の説明で終わっていること,b.労働と価値との関連づけが明らかでないこと,c.経済原論の三篇構成から逸脱していること)の理論的背景。

 1)は学会では常識と思うが,そうは考えていない立場の人には改めて説明が必要だ。
 先日お別れ会のあった山口重克氏は資本相違を度外視するというような意味で「代表単数」という言葉を用いている。宇野さんは言葉こそ用いていないようだが,生産論は階級関係そのものを叙述するのは適さないと述べている。

 2)はこちらの説明自体が未整理だった。
 要は,生産を自然過程の一部として捉えられているために,また労働と生産物との関係がいきなり物量体系で叙述されているために,「労働の定量性」が所与の前提にされてしまい,逆に「労働の定量性」を導くために必要な,(資本の)生産過程間の生産物と生産手段,生産的労働の絡み合い(a.代表単数的な視点)が埋没し,また労働一般を価値形成労働に塑造するための資本の価値増殖活動による締め上げ(b.価値と労働との相互規定性)が看過されている,ということだ。
 また,余剰論にいう本源的弾力性には,労働者が得る生活物資の量と支出する労働量との間の弾力性と,生活物資とそれを基に再生産される労働人口との弾力性という「二重の弾力性」が込められており,後者は社会再生産視点であるためにa.代表単数視点が後退してしまった。しかし,後者,労働人口の増減は,貨幣実在する市場論(商品在庫論)だけで説明しうるものではない。

 こうしたa.代表単数視点から階級視点への転換やb.価値と労働との関連付けの稀薄さが,c.代表単数視点の生産論と諸資本の競争態様を叙述する競争論との区分を曖昧にさせたのであろう。



2022年9月12日月曜日

二兎追い,今年も

  10月初旬の学会報告に向けて準備を進める,ようなことを前便では述べたが,実際にこの1週間に行ったのは,学務のほかは,10月中旬締め切りの解説論文「ジョブ型雇用とは」の準備だった。

 学会報告の方は,予定稿を提出してしまったので大枠は決まっており,報告スライドに推敲を加えるくらいだ。

 そちらもまだまだ手を加える必要はあるが,ある型はできた,と思っているので,アイデアだけの解説論文の準備,下調べに専念することにした。

 もちろん下調べをいくら重ねても論文にはならない。構成が大事で,下調べといってもそのぼんやりを詰めるためにある。

 つまり今年も二兎を追うことになって先行き少々不安ではある。

2022年9月5日月曜日

移ろい

  先々週末,先月28日,学会報告の予定稿を仕上げて以来,主に後期の講義資料を作成していた。
 報告は10月初旬だし,その後には解説記事の締切りが控えている。

 そこで,9月中旬に後期が開講する私学の講義資料,スライド動画を準備することにした。
  基本的には前年の講義スライドを基に不整合やわかりにくい表現を改め,データはより新しいものに差し替える。すると,スライドの補正,配布資料のアップロード,他方で動画ファイルの作成までに結構時間が掛かる。1日にせいぜい1コマ,無理をしても2コマである。

 夏期休業中といっても8月下旬からさまざまな学務が入っている。
 間隙を縫っての講義資料作りのため,提出した報告原稿は放置状態になっていた。

 ようやく先週末,報告スライドの作成に取りかかった。
 その1週間前に仙台経済学研究会で報告したときのスライドに手を加える形だ。
 すると,研究会報告から学会報告用原稿作成までの間に,報告の力点が経済原論体系に映っていることに改めて気付かされた。

 余剰論では,資本循環に即した搾取が示されず,余剰ないし搾取の普遍的根拠を示すに止まることは研究会報告でも触れていた。

 しかし,そのことが経済原論体系を大きく壊すという点は触れてはいてもそれほど重点を置いていなかった。

 学会報告原稿を詰めていく過程で,
・資本循環に即した搾取の欠如とは剰余価値論,価値論の欠如であること,
・また価値論の欠如する限り,宇野が始めた「資本の生産過程」(『資本論』第1部のタイトル)から流通論の分離独立の意義が曖昧になること,
・具体的には流通論と生産論との繋がりや生産論と機構論(競争論)との区分の意義が曖昧になること
に力点が移っていた

 1ヵ月先の報告に向けてこれらの点を詰めることになるであろう。(学務や解説論文の準備の合間を縫って)

2022年8月28日日曜日

ウトウトウトウト

  8月26日 秋の学会報告用予定稿を投稿した。

 8月20日,仙台経済学研究会の報告を終えて,さらに文章の推敲を繰り返した。
 会議のない日は,余情論を検討した第三章に限って推敲,打ち出し,推敲を毎日繰り返した。会議等校務がない日は朝,昼,晩の三訂ができた。
 説得力を持たせるにはそれぞれの論点でどの箇所を取り上げるのがベストかを考え,検討箇所の入れ替えなどを頻繁に行なった。

 投稿論文に対して誤字脱字の指摘を度々受けていたので,最近はWordの読み上げ機能を利用している。
 書いた本人には意味が通じているので,文章を目で追うだけでは誤字・脱字の見落としが起きる。
 そこで,昨年,一昨年くらいから読み上げ機能を利用するようになったのだが,締切り当日はよほど疲れていたのか,Wordが読み上げる最中何度もウトウトしてしまった。
 校正としては心許ない。

 しかし,振り返って一番気に掛かるのはやはり内容,構成のようである。
 特に末尾に記した余剰論の理論的背景部分である。
 いずれも文章が練れていない。あるいはその前に説明が十分ではなかった。
  報告まで1ヵ月少々あるので,さらに練り上げたい。
 

2022年8月12日金曜日

計画的登校

  院生との面談を入れていたため登校したが,本日から金,月,火と計画的休暇だった(祝日の昨日から土日を含め火曜日までお盆休み)。  しかもこちらでは感染拡大が止まっていないことを理由に急遽Zoom面談に切り替えた。  なぜ登校したのかますます不明。

 もちろん,極私的には理由がある。  学会報告の構成が完全には定まっていないが,見切りを付け,報告予定稿の執筆に取りかかったが,早速頓挫。  自宅および近所のカフェでの作業に行き詰まったので,河岸を変えることにしたのだ。    この分だと今後も休み中に登校しかねない。  締切りには休暇がないが,何とか自宅周辺をウロチョロするに止めたい。


2022年8月10日水曜日

ようやく?何がどうなったのか

  またまた更新が滞り1ヵ月経った。
 学期末で慌ただしかったこともあるが、秋の学会報告、しかと構成が定まらないうちにエントリーしたため、学期中もスライド上で論点構成を繰り返し入れ替え検討いた。

 そうこうするうちに8月。
  そうこうするうちに報告予稿の締め切りまで半月。
 ようやく構成を固めた。いや「腹を固めた」という方が正解か。

 小幡先生が「マルクス経済学を組み立てる」(2016)で提唱された剰余価値理論の余剰論の組み替えについて、余剰論と他の組み替え論点3つとの関係を踏まえながら、検討していく。

 報告における検討課題は差し当たり3つ。

 剰余価値理論の余剰論への組み替えによって

1.搾取はどのように説かれるのか?
 剰余価値理論は資本主義経済を対象にしている。労働力商品の価値を超えて労働の生み出す価値を剰余価値と規定しているからだ。しかし、余剰論の対象は資本主義経済に限定されない。普遍的に労働者に与えられる生活物資とそこから抽き出される生きた労働との間には意義的関係はない、本源的弾力性があることに余剰、純生産物発生の余地を見ている。
 では、資本・賃労働関係ではどのように余剰の発生が説かれるのか?

2.労働と価値との関係はどのように説かれるのか?
 「組み立てる」では労働生産物ではない労働力商品に投下労働価値説を適用することはできないとして、客観価値説が提示される。
 剰余価値論の場合、労働力商品概念を基軸にその価値とそれによって購入される生活資料に投下された労働という形で労働と価値とが関連づけられていた。
 では、余剰論ではどのような形で両者を結び付けるのか?

3.経済原論体系はどのように組み立てられるのか?
 マルクスの『資本論』の場合、冒頭商品論で2商品の交換関係から価値とその実体である抽象的人間労働が関連づけられていた。そのため「資本の生産過程」(『資本論』第1部のタイトル)から流通論が分離独立することはなく、また生産論の中に流通過程論が組み込まれることもなかった(マルクスが生前公刊したのは『資本論』第1部のみであり、その遺稿の中から「資本の流通過程」として第2部が、「資本主義的生産の総過程」として第3部が公刊された)。
 これに対して、抽象的人間労働の抽出(価値と労働の同定)を資本の生産過程で行った宇野弘蔵の場合、『資本論』第1部「資本の生産過程」における商品、貨幣、資本に関する規定を流通論として分離独立させ、それ以降の叙述および『資本論』第2部を生産論の中に組み込み、基本的に同3部に当たる分配論と合わせて3篇構成とした。
 余剰論における価値と労働の関連づけによってこの3篇構成はどのように変わるのか、が第3の検討箇所となる。


2022年7月5日火曜日

福留久大先生ご逝去の報に接す

 学部,大学院時代の恩師,福留久大先生がご逝去なさったとの報に接し少なからず動揺している。

 先生はキャンパスの異なる教養部に属されていたため,毎日のように接し,その延長で先生のプライベートな側面まで耳にする,というような良くある?師弟関係ではなかった。
 最初は学外の,市民を相手にした「資本論を読む」学習会で教えていただき,大学院時代には演習に参加させていただいたものの,厳しく指導いただいたわけではなかった。(出来が悪いので,指導を諦められていたのかも知れないが)
 むしろ身軸なのにいっぱしの研究者のように接していただいたり,助手終了後,非常勤講師の職を譲っていただいたりするなど物心両面でご支援いただいた。

 つまり研究内容のご指導よりも研究生活を励ましていただいた,普通の師弟関係とは違うという思いが強いのだが,大学の教師になってみると,大学の勉強は,本人が関心を頂かなくては先に進まないのだから,学問指導よりも学生を励ますことの方が大事であり,なぜ福留久大先生からあその方法を学ばなかったのかなぁと後悔することがある。

 学生指導について改めて先生からお話を聞きたかった。
 それこそ関心を抱いた自分が考えろ,という先生の教えかも知れない。

 今となってはひたすらご冥福をお祈りするほかない。

2022年6月11日土曜日

秋の学会報告

 更新が途絶えてブログというより個人的なメモになっている。

 秋の経済理論学会での報告申込みの期日がGW中にあり,分科会の自由報告にエントリーしたところ,先週22日に報告することが幹事会で承認されたとの連絡があった。

 申込時に記した報告たいとると概要は以下の通りである。

 報告タイトル「剰余価値論の余剰論への組み替えについて」

 報告概要「小幡道昭氏が「マルクス経済学を組み立てる」(2016)で提唱された剰余価値論の余剰の理論への組み替えの経済原論の枠組み(資本の価値規定,労働の同質性・量的規定,労働力商品規定)への影響を,3つの「余剰」(「貨幣の実在する市場」(商品の充満する市場),純生産物としての余剰,労働市場における産業予備軍常在)の違いに着目しながら検討する。」

 まだ構成も定まらないうちに手を挙げたので,概要もその時の考えに過ぎない。
 主な関心は余剰理論で経済原論の枠組みを維持できるのか,言い換えると資本主義経済の存立構造を理論的に示せるのか,ということにある。
 純生産物の発生を,労働者向け生活物資(いわゆる生活資料)の投入と支出される労働量との間の「本源的弾力性」で説き,分配の偏りを「階級関係」で説くという余剰理論は小幡氏の『経済原論』(2009年)で既に示されていた。
 しかし,『原論』では剰余価値概念も同時に説かれており,剰余価値論の余剰理論への「組み替え」には至っていなかった。
 その『原論』(2009)の枠組みは,「組み立て」(2016)における剰余価値論の余剰理論への組み替えという問題提起を経てなお維持できるのか,あるいはどのように変わるのかに大きな関心がある。


2022年4月29日金曜日

半日がかり

  火曜日ようやく抜刷到着。
 28日は大型連休の前に発送しようと作業を始めたら午前中一般掛かった。

2022年4月8日金曜日

問題意識が異なるのか?

 前稿「問題意識,問題関心」で記したことも抽象的でわかりにくかったであろう。

少し具体的に記してみる。

 まず1.問題意識の相違

 多様な労働を理論的に把握するための試みが現在2つある。

 一つは,人間活動のうち,一定の仮定で区切って,成果が正の場合「生産」,腑の場合「消費」と位置付け,消費部門における労働を生産部門における労働特別する試みである。さらに目的意識的な「労働」の他に,目的意識性を欠き不定型な活動として「非労働」概念を設定し,生産・消費と労働・非労働の組み合わせで生産における労働,消費における労働,生産における非労働,消費における非労働の4類型を示す試みである。

 もう一つは,労働過程の一要素としての労働そのものは主体相互のコミュニケーションを含むがゆえに必ずしも定量的とは限らないけれども,その一部,労働過程を成果である生産物視点で捉え返した生産的労働は定量性を帯びる,という見方である。

 片方は,労働そのものは生産であれ消費であれ量的性格を帯びているけれども,人間活動には労働の他に「休息や遊びのような,非労働と一括するほかない不定型な活動」がある,という見方である。

 他方は,労働それ自体には定量性はないけれども,特定の生産物・寮を念頭に置いた生産過程の絡み合いのなかで定量性を課される生産的労働がある,という見方である。

 この2つは多様な労働へのアプローチは全く異なる。

 これらは現代の諸労働への問題意識が異なるのだろうか。

 必ずしもそうとは言えない。

 というのも,どちらの見方も,ある論者の1995年の論文で示されていたからである(労働・博道は同じ論者の2009年の著書で出現)。
 どちらも同じ問題意識「製造過程における機械化・省力化の急激な進展のもとで、商業・金融などの市場活動やそれに随伴する運輸・通信といったサービスにますます多くの人間活動が吸収される傾向にある。と同時に、これまで市場とは異なる原理に依存してきた人間の心身に直接関連する、教育・医療や育児・介護などのさまざまな活動も他者の活動を通じて社会的に維持されるようになってきている。そしてこのような活動の場の推移とともに、その内容も大きな変化を遂げつつある。それに対して、従来の労働概念をそのまま当てはめようとすれば、そこからはずれた側面ばかりが目につくのは当然のことであろう。…それが賃金労働という形態をとるかどうかは別として、むしろこれまでの時代に比べてますます多くの時間を他人のために〈はたらく〉ことに費やしている観さえある。このようにみると、旧来の労働概念を固定してそれと異なる活動が増大したという方向で考えを進めるよりは、むしろ労働概念のほうを再開発するほうが、変容しつつある人間活動を包括的に理解する捷径であるように思われる。」から出発している。

 異なる見解,対立する見解だからと言って「問題意識が異なる」と視野の外に置いて良いはずがない。


問題意識,問題関心

 (前稿のような議論は,経済原論を先行しない者にはピンとこなかったであろう。こちらももう少し詰める必要がある)

  先行研究に批判的検討を加えると,問題意識,問題意識が異なる,というコメントを受けることがある。

 これに対しては,大別して2つないし3つの違和感を覚える。

  1. 本当に問題意識が異なるのか?
    原論の個々の論点には複数の見解があり得るが,それが問題意識の違いと言えるか?
  2. (上と裏表の関係にあるとも言えるが)特定の問題意識を持つとなぜそのような理論展開になる,と説明できているのか?
  3. (これも上と重なるが)同じ問題意識にあると称していても,原論の個々の論点では違いが生じているが,それらは相互に批判的に検討したうえで規定されているのか?

 これらについてしかと説明がなされない限り,上のコメントは批判を排除する内向きの,あるいは党派的コメントにしか見えないのである。

2022年3月15日火曜日

生産論と余剰論

  アソシエーション論の校了以降,その一つ前の論文の読み直してみた。
 論点設定の甘さ,説明の不備も目に付き,さらに練る必要を覚えたが,もう一つ検討すべきことは生産論の位置付けだ。

 生産論とは,形式的にいえば,宇野弘蔵が『資本論』第1部「資本の生産過程)の商品,貨幣,資本に係わる冒頭2篇の考察を社会的再生産を予定しない流通論,流通形態論として純化する反面として,第1部の第3篇以降と第2部「資本の流通過程」を,流通論に続く生産論として独立させた理論部分だ。
 とこの後を書き繋ごうとして10日近く経過したので,要点のみ。

 最近の剰余価値論を余剰論として組替える試み生産論ないし経済原論の枠組みと適合しないのではないか。

1.量的に一致しない
 余剰=剰余価値+労働力の価値とされているが,余剰を純生産物と言い換えるとき,そこには利潤,利子,地代を排除出来ない。しかし,生産論では労働力商品の価値を超える新生産物価値は産業資本の取得する剰余価値に限定されている。

2.余剰の分配を司る階級関係は資本・賃労働関係に限定されない。
 生産過程に投入される生産手段と労働力との回収のされ方の違い,本源的弾力性に余剰の発生根拠を求め,階級関係の存在により余剰分配の偏りを説くのが余剰論であるが,その場合,分配に与るのが資本・賃労働関係に限定される謂れはない。しかし,資本による生産過程包摂を主テーマとする生産論では資本・賃労働関係に限定されている。

3.資本・賃労働間の労働交換を示すだけでは資本による価値増殖を解明したことにはならない。
 価値増殖ないし剰余価値の発生が資本の下で労働者が行う生きた労働量Tと労働者が取得する総生活物資に対象化された労働量Btとの差として説明されているが、生産論では代表単数であれ、流通形態たる資本による剰余価値生産であって階級としての資本を扱っているわけではない。

 1.2.は余剰論では生産論と市場機構論の位相差がハッキリしなくなるのでは(その象徴が特別剰余価値規定の消失)という疑問であり,3.は流通形態論と生産論とが分断されているのではという疑問である。


2022年2月20日日曜日

微かな移動

  論文校正の時間を確保するために,講義資料は早めに作成し,採点に時間の掛かるまとめテストを最終回以前に出題していたのだが,2月に届くはずの初校ゲラが1月中旬に届き,採点と校正が完全に重なってしまった。

 しかし,そのお陰で,校正も最低限と割り切ることができたし,1月末には学務もほぼ終わって,時間に余裕が生じた。

 そこで次の論文を構想する意味で,この論文に限らず,最近論文で取り上げてきたことを振り返ってみた。
 結果,自分の関心が生産的労働から生産過程論に徐々に移っていることがよく分かった。
(と,この続きを書こうとすると,長くなり,またそのことが鬱陶しくなって何と半月くらい更新が延びた)

 今まで多様な労働の理論的把捉には経済学の初期から存在した生産的労働概念の再措定が必要である,と訴えてきた。
 しかし,学会の動向は全く逆に生産的労働概念の形式的理解,形骸化が進んでいる。
 その原因を探ってみると,生産的労働を規定する生産過程論自体の形骸化があった。
 (経済原論分野では,『資本論』に倣い,労働過程の生産物視点で捉え返しを生産過程と呼び,その構成要素として生産的労働を規定してきた(「この(労働過程の---引用者)全過程をその結果である生産物の立場から見れば,2つのもの,労働手段と労働対象とは生産手段として現われ,労働そのものは生産的労働として現われる」K.I,S.196)。
 ところが,今日では,生産過程および生産的労働を労働過程以前に自然過程の一部として設定する概説書や,商品論以前の序論で設定する概説書が主流になってきた。

 そこで,ここ2,3年はこのような生産過程の設定の仕方を批判してきた。このような仕方では,労働一般と生産的労働との区不生産的労働や価値形成労働を不生産的労働や価値形成労働が見落とされ,労働の多様性を理論的に把捉できない,と。 

 つまり,生産的労働規定の前提となる生産過程論の設定の仕方自体を問題として取り上げるようになっていた。

 このような理論的考察はまだまだ練る余地が大きいが,最近執筆した論文を振り返ると,問題はさらに大きく,生産論そのものの理解,理論的位置付けが問われているように思えてきた。

 生産過程ないし生産的労働の形式的理解,形骸化は今に始まったことではないが,生産過程を自然過程の一部として捉えたり,序論で生産過程を設定したりすることは,商品,貨幣,資本等流通形態を規定した後に設定する生産論,その一部としての資本の生産過程論の理解に問題があるからではないか,と考えてみたわけである。
(その理由は別稿で)

2022年1月29日土曜日

アッサリ終了

 1月24日(月) 「マルクスのアソシエーション論とその制約」の校正が済ませた。

  編集者からは「遅くとも2月上旬まで」と聞いていたため,締切日夜に投稿した当方は校正も最終グループの2月上旬だろうと予測して,担当科目のまとめシート(講義科目は毎回の確認問題のほか2,3回に分けまとめ問題をオンライン出題している)の出題期間,採点期間をずらして設定していた。思っていました。(後で考えると,英文査読をスキップしたので順位が上がったのかも知れません)
 他方,本務校では郵便集配所が別棟に集約され17時閉所となっているため,郵便チェックできない日が続いた。18日は学生の感染者が発見され2コマ目以降キャンパス入稿規制が敷かれていた,19日は会議授業が詰まっていた。
20日は振替休暇を取っていた。21日も当日の郵便が到着する昼過ぎに集配所を訪れ,初校到着に気付いたが,既にある科目のまとめシート採点に着手しており,校正を始めたのは22日(土)昼前になった。

 そのため,24日の校正締切り当日に投函するにしても実質3日しか残されていなかった。
 研究室においていた資料が必要な引用原典との照合は24日に回して,朱入れは土日2日間だ。

 とはいえ,年末の投稿以来,何度か読み返し,読み返す度に不備が目に付いたが,そもそも論文の構成は変えようがないし,展開不十分な点を補うにも校正で許される紙幅拡張は限られいる校正の前の週までには,校正のポイントを2つに絞っていた。それぞれ論者の見解を原典に即して明確に示せているか,という点であった。

 内容上の朱入れは土日で済ませ,月曜日は引用原典との照合に当て,初稿ゲラのPDFを提出した(現物は当日投函したので,2日遅れの到着になった)。

 結局,校正は念入りにしなければと気構えていたが,日数が限られたため,小幅な変更・追加でアッサリ終わった。

 自分でも気付いた不備な点を一層掘り下げて次稿に繋げたい。


2022年1月18日火曜日

隙間を作って

  1月から2月初めは,授業の準備,後処理の他に,テストの作成,採点,単位評価など学期末の業務,恒例になっている春闘パンフレットに載せる「経済指標の解説」執筆,そして今回は論文校正の必要がある。
 しかし,校正は一校,二校がいつ届くか不透明なために,それ以外の業務について,スケジュールの隙間を見つけて準備する必要がある。
 もっと言うと,「隙間を見つけて」というより「隙間を作る」ことになる。
 業務それぞれには最終期限が決まっているが,早めに済ませることは可能なので,業務によってこちらが作業を行なう期限をずらすことによって隙間時間を作ることになる。

 こうしてこしらえた隙間時間に「経済指標の解説」の資料集めと執筆を集中して行ない,期限の14日(金)に提出した。

 後は残っている講義資料2回分の作成と課題の採点をしつつ,事前校正?を進めることになる。


2022年1月6日木曜日

穴埋め式

  冬休みの間,提出した論文にも不備が多々浮かんできた。

 構成自体は,これまでも種々悩み,何回か手を入れてきたが,今さら変更しようがない。しかし,局面毎には説明不足だったと思われる点は見過ごしにできない。原典との照合も不十分だった。そう考えると埋めるべき穴が山ほどある。

 他方で,二兎追いしてきこの数ヶ月,後回しにしてきたことも少なからずある。毎週の講義やその時々に発生したことをこなしてきたのは言うまでもないが,締切りが先のことはたいてい先送りだった。終盤の講義資料作成,期末テスト問題の作成,前期科目のまとめ,春闘パンフレットに載せる経済指標の解説。

 それぞれ期限が異なるのが救いで隙間を見つけて穴を埋めてゆきたい。

2022年1月3日月曜日

国宝を読む

 元日は27インチ液晶画面で,2日は朝からサウナとリラックスルームを行き来して,Kindle端末でストーリーテーラー吉田修一による歌舞伎役者一族の起伏に富んだ物語『国宝』(上)(下)





年末気分

  歴史が動く局面では現実が物語の上演のような感覚が生じる。  他方で,一人一人には歴史感覚はなく,日常の享楽や保身に現を抜かしている。  野口武弘『幕末気分』

 Kindle本,読んでいる箇所が全体のどの位置かつかみにくい。

 リビングまでの

廊下が寒い大晦日だった。