2022年2月20日日曜日

微かな移動

  論文校正の時間を確保するために,講義資料は早めに作成し,採点に時間の掛かるまとめテストを最終回以前に出題していたのだが,2月に届くはずの初校ゲラが1月中旬に届き,採点と校正が完全に重なってしまった。

 しかし,そのお陰で,校正も最低限と割り切ることができたし,1月末には学務もほぼ終わって,時間に余裕が生じた。

 そこで次の論文を構想する意味で,この論文に限らず,最近論文で取り上げてきたことを振り返ってみた。
 結果,自分の関心が生産的労働から生産過程論に徐々に移っていることがよく分かった。
(と,この続きを書こうとすると,長くなり,またそのことが鬱陶しくなって何と半月くらい更新が延びた)

 今まで多様な労働の理論的把捉には経済学の初期から存在した生産的労働概念の再措定が必要である,と訴えてきた。
 しかし,学会の動向は全く逆に生産的労働概念の形式的理解,形骸化が進んでいる。
 その原因を探ってみると,生産的労働を規定する生産過程論自体の形骸化があった。
 (経済原論分野では,『資本論』に倣い,労働過程の生産物視点で捉え返しを生産過程と呼び,その構成要素として生産的労働を規定してきた(「この(労働過程の---引用者)全過程をその結果である生産物の立場から見れば,2つのもの,労働手段と労働対象とは生産手段として現われ,労働そのものは生産的労働として現われる」K.I,S.196)。
 ところが,今日では,生産過程および生産的労働を労働過程以前に自然過程の一部として設定する概説書や,商品論以前の序論で設定する概説書が主流になってきた。

 そこで,ここ2,3年はこのような生産過程の設定の仕方を批判してきた。このような仕方では,労働一般と生産的労働との区不生産的労働や価値形成労働を不生産的労働や価値形成労働が見落とされ,労働の多様性を理論的に把捉できない,と。 

 つまり,生産的労働規定の前提となる生産過程論の設定の仕方自体を問題として取り上げるようになっていた。

 このような理論的考察はまだまだ練る余地が大きいが,最近執筆した論文を振り返ると,問題はさらに大きく,生産論そのものの理解,理論的位置付けが問われているように思えてきた。

 生産過程ないし生産的労働の形式的理解,形骸化は今に始まったことではないが,生産過程を自然過程の一部として捉えたり,序論で生産過程を設定したりすることは,商品,貨幣,資本等流通形態を規定した後に設定する生産論,その一部としての資本の生産過程論の理解に問題があるからではないか,と考えてみたわけである。
(その理由は別稿で)