2024年2月27日火曜日

這々の体

  研究室の後片付けについて,前回,自宅に持ち帰るのは後2箱に収めたいと述べた。
 しかし,実際に荷造りするとなると捨てられない本が一つ二つと出てきて,26日(月)は6箱余りの本を持ち帰った。
 26日中には片付かなかったので,翌27日(火)もクルマで登校することになった。

 当日は降雪が予想されていたとは言え,十歳はこちらの予想を超えていた。

 朝の県境の国道286号線は時々地吹雪が舞い,一瞬ホワイトアウトのように視界が閉ざされることもあった。トンネルを出て高速を降りると,山形側は車道の両端に雪が残り,道が狭くなっていた。

 研究室に残っているのは,文房具やPC関連機器,備品だけだと思っていたが,捨てがたい資料も1箱を埋めるほど残っていた。結局,段ボール5箱に軽量ラック2つなど私的に持ち込んでいた家財道具を持ち帰ることになった。
 それでも床には様々なモノが転がっている。
 最後は,紙資源として回収できるか,すべきかなど考えずにゴミ箱に次々に詰め込み這々の体で退却した。(それでもまだ車に乗せられなかったモノ,言い換えると利活用可能なモノが残っているが,後はバッグに詰めて持ち帰ることも可能だ)

 今回は車で運び出す前に,自宅に持ち帰る書籍を絞り込むために,前々週から基準を立てる,棚毎に選り分けてみるなど,手前味噌ながら入念に準備したつもりだが,結局,箱詰めの段階で「例外的に」持ち帰るモノが次々と生じて,作業時間が大幅に延長した(26,27日は残った年休を割り当てていた)。

 持ち帰ったものの,文具・備品以外の箱は全く荷解きしていない。
 書架スペースは限られている。
 まずは見在書架を占有しているモノの選別から始めるしかない。 


2024年2月24日土曜日

ようやく6,7合目

  2月20日(火) 研究室の本を整理し100サイズの段ボール箱8つを自宅に持ち帰ったところで,自宅に引き取るのは後せいぜい2,3箱だなと観念した。段ボールとしては置き場をあっても,並べる初夏スペースには限りがあるからだ。

 そこで,翌21日(水)は午前中に本を片っ端から始末した。最初に取り寄せた120サイズの段ボールは本を一杯詰め込むと重すぎで持ち運ぶ内に腰を抜かす。そこで倉庫まとして使うことにした。として使うことにした。
 まず研究室に残している本のうち,重要度に応じて棚に振り分けた。
 ドアを入って左側が新旧宇野派の文献,右側がその他の文献及び古後者後者のほとんどは本学赴任以前に購入したもので,赴任後はほとんど手に取っていない。
 20日(火)はしばしば用いる左列の本を自宅持ち帰る保存用と処分用に仕分けしていたので時間が掛かった。
 22日(水)午前中はこの間,余り使っていなかった右壁面の書架の本の内,敢えて保存する本のみ摘出し,他はすべて処分することにして120サイズに段ボール箱に詰め,倉庫に運んだ。
 左壁の文献にもまた右壁にも重要な文献が含まれているのは当然だが,現在の問題関心辛いってやがて手にすると見込まれないものまで持ち帰っていては切りがない。新たに必要になれば,その時,取り寄せると割り切るしかない。午後は教授会が予定されていたので,後50から100冊残したところで作業を終えた。

 これを100サイズの段ボール箱にせいぜい2箱分に絞り込む必要がある。
 というのも,自宅に持ち帰るのは本以外にもPC等機器および細かな備品があるからだ。
 研究室を引き払うのもようやく6,7合目。クルマで後2往復は必要,というところか。

 23日(木)は年休を取って自宅の用事。
 その合間に,学生バイトの貧困率の推移,子どもの貧困率の推移に関する文献。
 学生の貧困率は80年代からやかに上昇しつつも,2015年前後いったん落ち混み,矢形再び上昇に転じている。興味深い点だ。
 


2024年2月17日土曜日

どう変えるのか変わるのか

 先週,いや先々週からはじめた「研究室仕舞い」が一向に進まない。
 もう10年近く前,耐震工事のために研究室を一時退避したときは一週間も掛からなかったという微かな記憶が残っていたため悠長に構えていたが,その時は書籍,備品を臨時研究室にそっくり移せば良かったので,自宅に持ち帰るか処分するか悩む必要がなかった。今回はそうはゆかない。最近の論文なら殆どが2,3年後に公開されるし,ノートもファイルとして保存している。それに対して,デジタルで保存されていないものは処分すると再現でない。他方で,じじ10-20年開いてこなかった本をいまさら手に取るとは思えない。前稿でも記し逡巡は簡単には収まらない。
 おまけに今週は月曜日が祝日で,火水木も午後会議等あり,午前中しか研究室に入れなかった。
 結局,最後の金曜日になって書架の上に平積みしている雑誌や段ボール類を卸して処分した。論文コピー等は殆どを紙資源として処分することにした。段ボール1箱分残しているが,これもさらに選別の余地がある。
 そして夕方にはいよいよ書籍の選別に着手した。金曜日行ったのは新書,教養書。
 基本はやはり紙資源としての処分。残る文庫は古典名作もあり,半分以上残したが,まだ選別の余地はある。
 来週はいよいよ書籍の処分である。 

 週末になってようやく自分の時間が取れた。
 17日土曜日手にしたのは大都市自治体が行った非正規シングル女性(子なし)に関する調査をもとにした論文1編のみ。

 興味深かったのは次の2点。

  1. 女性非正規雇用のシングルと既婚者の比較。
    • どちらも個人収入は年200万未満が多いが,既婚者の世帯収入で200万円未満は少ない(配偶者の年収で生計を立てている家計補助的労働)。
    • 週の労働時間もシングルが長いのに対し,既婚者は短い(いわゆる主婦優遇措置に対応した「就業調整」の影響であろう)
  2. どちらも正社員になれなかった,正社員としての募集がなく非正規になったという「不本意非正規」が多いし,現在の仕事・賃金に不満・不安を抱いているにもかかわらず,今後に関しては「非正規のまま現在の会社に勤めたい」「他の会社で非正規として働きたい」が多い(既婚者の場合,主婦優遇制度の影響だろうが,シングルがなぜ?)

 よく理解できない,腑に落ちない。
 もっと勉強しろということであろう。

 この1年間,勤め人を終えたらどうなるか気になっていたが,研究室を引き払い今までと変わらないような気がしてきた。







 

  

2024年2月13日火曜日

先送りに終わった週末

  先週は平日の内は引き払う研究室の書類整理に追われた。
 最大の問題は書架の本の自宅配送と処分との分別なのだが,その前に書類の分別をしようとした。各種委員会の書類,論文のコピー,ノート類。しかし,後二者はタイトルを読むと,いろいろ思い出されて判断に迷ってしまった。内部労働市場について調べ出した時期の文献,ゼミの記録,さらに遡って大学院生時代のノート。それぞれ思い出がある。しかし,これらを一々保存していては自宅が倉庫になり自分の居場所がなくなる。割り切るしかない。
参考文献の内,当時の現状分析,調査に関しては今では古いので処分しても構わないだろう。また自作ノートは,そのエッセンスが頭に残って血肉になっていなければ,ノートとして不十分ということだから,再び原典に当たるしかない。つまり処分しても構わないだろう。問題は大学院以来のゼミの記録。自分では再現できないからだ。取り出せば,思い出が蘇るとは言え,この2.30年放っておいたということはその再現可能性は今後も低いのであろう。

 週末三連休は徐々に起床時間が遅くなった。
 4月からの脱勤め人生活が思いやられる。
 三連休では12月に仕上げた原稿と関連する文献を読み直した。
 原稿に関しては,方法論に傾斜した分,理解を得るには補足の必要があると思えた。
 しかしながら,参考文献を読み返すと,経済原論の理論的構成,方法についてさらに考究する必要性に気付かされた。
 中堅以下では,労働価値説に関して,価値と投下労働との関連を緩めて,物量体系における技術的関連性から価値と労働量との関係を説く傾向がある。
 個別の商品レベルでの価値と労働との関係に拘っていては「転形問題」の軛から抜けだけ内が,成果物と労働の量的技術的確定的関連性から労働量を規定すれば事足りるという理解からである。
 しかし,11月の学会報告及び12月の原稿でも指摘したように,

  • 生産過程に投下される労働すべてが量的技術的確定性を有するとは限らない(価値と労働との関連性を説く場合には,量的確定性のある労働を限定する必要がある)
  • 社会的再生産との関係が保障されておらず,流通主体の私的理解を体現した流通論における価値概念と,量的技術的確定性によって決まる生産論の価値概念は結び付かない(関連が不明)。
  • (付言すれば)価値と労働との関連付けが一方通行。資本の生産過程包摂による商品経済が社会的に全面化している以上,価値,資本による労働生産過程の規律という側面「相互媒介性における流通の先行性」(山口[1990]:9-14)もおさえる必要がある。
    つまり,価値と労働の規則性を考える際には,生産過程における量的技術的確定性が基盤にあることは間違いないにしても,その場合の労働は生産過程における労働すべてではないこと,量的技術的確定性の確率には資本の起立性が絡んでいることを抑えておく必要がある。

  なお検討を要する,が結論で,用は先送りとなった。

2024年2月4日日曜日

なぜ生産的労働か・2

  前々回,なぜ生産的労働を用いるか論じた。
 価値論を用いて現代の多様な労働を理論的に把捉するには生産的労働概念の設定が必要という趣旨であった。
 しかし,中には価値論を奉じながら生産的労働概念を積極的に用いない,あるいはまったく用いない見解も存在する。というか,ほとんどがそうで,生産的労働概念の意識的適用を図っているのは私だけだ。
 ではそれらは多様な労働をどのように把捉しようとしているのか?

 多くは現代の多様な労働といっても家事労働,NPOの労働などを「単なる活動」と理解し,「労働」とは位置付けていないのではないか。

 生産的労働概念が古典派経済学の初期に出現したとき,売買益(値ざや)を利潤の源泉ととらえる重商主義経済学への批判という意味で,新価値,付加価値は生産されるという理解であった。つまり価値形成労働の表象としてであった。
 他方で,スミス以来,有体物を生産する労働が生産的労働という理解,物質基準(敬愛原論分野では資本主義的生産に限定されない普遍的規定という意味で本源的規定説)はあったものの,剰余価値を生産する労働が価値形成労働という付加価値基準(経済原論分野では資本主義的生産形態に固有という意味で形態規定説)が主流であった。
 出発点が新価値形成の有無であったから,生産的労働概念の適用はある労働が価値を形成する生産的労働か形成しない不生産的労働かに集中した。すなわち形態規定説に立脚すると,資本と交換される(資本の投下対象である)労働は剰余価値を生む生産的労働であるのに対して,収入と交換される(資本としては投下されない)労働は不生産的労働であった。しかし,賃金が支払われない家事やケア,ボランティアは資本との交換でも収入との交換でもなく,労働ではない「単なる活動」扱いであった。

 本源的規定説に立脚する場合は,家事労働も剰余価値を産まないという意味では不生産的労働を位置付けられるけれども,いわゆるサービス労働は一様に不生産的労働と位置付けられ,例えば私学の教育労働(形態規定説では生産的労働),家庭教師の労働(形態規定説では不生産的労働),親兄弟による学習指導の区別がつかないことになる。

 関心が価値形成,非形成にある限り,賃金が支払われない無体物の生産に関心が向けられることはなかった。そして,価値論の研究が進むにつれて,価値形成労働の表象に過ぎない生産的労働への関心は失せていったのである。生産的労働か否かという迂回的議論を通さなくても,価値形成労働の基準を明らかにすれば,価値を生むか否かを論ずることが可能になるからである。

 例外的に中川スミは,フェミニスト経済学からのマルクス批判に対抗する関係で,家事を「労働」と捉えていたけれども,生産的労働概念を活かせず,賃労働より「私事性のヨリ深い」労働としてしか位置付けられなかった。
 すなわち,家事労働が価値を生むか,また家事労働が労働力商品の価値に算入されるかという2つの問に対して,家事労働は賃労働に比し「私事性がより深い」労働であることを根拠に「否」と答えた。価値形成労働と言っても,賃労働はその産物である商品が売れて初めてのその社会的位置付けが判明する私的労働であり,共同体社会における労働や計画経済体制における労働のように初めからその社会的位置付けが保障された「社会的労働」ではない。賃労働とも異なり,その産物が市場で売られることにより社会的位置付けが確認されることすらない家事労働は賃労働よりも「私事性がより深い」から価値を形成しないし,労働力商品の価値にも算入されない,というのである。
 しかし,その労働が価値を形成するか否かと,労働力商品の価値に算入されるか否かとは理論的意味が異なる。有体物であれ無体物であれ,その産物が商品として市場に供されることのない家事労働が商品の属性である価値を生まないのは当然である。しかし,労働力商品の価値に算入されるか否かは別である。中川はクリーニングは労働力商品の価値を生むと認めている。しかし,家庭内の洗濯とは異なり,クリーニング労働については価値形成労働と認める論者もいれば認めない論者もいる。つまり,ある労働が価値を形成するか否かと労働力商品の価値に算入されるか否かは別の問題なおである。後者の労働力商品の価値に算入されるか否かは,第三者的に費用として計上できるか否か,つまり労働に定量性があるか否かで判断されるのであり,それが価値形成労働か否かとは別の文脈なのである。言い換えると,家事を労働と認めた中川には価値形成労働と区別された生産的労働という概念がない,ということになる。両者の別が理論的に整理されていなかったから,家事が価値を生むか否かと労働力商品の価値に算入されるか否かという角度の異なる質問に対し,賃労働より「私事性がより深い」という無内容な回答をしたのである。無内容と祠宇のは,家事労働が私事性の深いということの根拠が商品を生まないという意味では家事労働の定義と同義反復であるからである。

 生産的労働はその誕生時より価値形成労働の表象としてある買われてきたため,商品を生まない家事労働やNPOの労働には関心が向けられなかった。逆に家事労働に関心を向けた労働者は,生産的労働概念が掛けていたために,労働の価値形成問題と費用計上問題を区別できない状態,理論的混乱に陥っていた。


なぜ労働力商品なのか

 もう一つ,よく聴かれる,あるいはそう問われているように思うのは,なぜ労働力商品概念を用いるのか,ということである。
 労働力商品概念については相当の研究蓄積があるので,思いつくままに論じるわけには行かない。
 しかし,昨夏の研究会で数理派の中堅研究者は労働力商品概念を敢えて使わず,別の概念を用いる試みを論じていたので,むしろ労働力商品を使わないで資本主義経済を論じられるのか気になった。 

 その報告は,労働力は本人と不可分離なので売買不可能であり,むしろ労働力請求権が売買されるという主張であった。
 労働力商品概念のポイントは,法的には雇用とされることを(労働力の)商品売買と捉え返している点であろう。

  1. 雇用は封建社会までの人格的拘束関係からは自由である。資本主義固有の生産関係を表わすことになる。
    現在,世界中で,従来フリーランスないし個人事業主と位置付けられていたギグワーカーを雇用として保護すべきか否かが問題になっているように,業務委託と雇用の違いは主に指揮命令権の有無にある(その他に労働としての対価性の有無,報酬が一定時間拘束した対価なら雇用)。業務委託の場合,求める業務(労働ないしその成果)の指示だけで,その遂行方法,場所等に本人の裁量性を認めている。これに対して,雇い主に指揮命令権を認める雇用は,労働の手順,場所の指示,管理を伴う。
  2. しかし,雇用のままでは,資本主義経済のメカニズムを表現できない。家庭内の執事の場合も雇用に含まれる。労働力の商品化とすることによって,それが収入との交換かそれとも資本との交換かを明確にできる。
    つまり,それ自体価値を持つ商品とすることによって資本主義的経済機構の叙述が可能となる。
  3. 資本・賃労働関係間で商品交換が行われると捉える場合,その商品が労働か,労働力かが問われる。
    労働の売買という理解では不等価交換によってしか価値増殖を説明できない。労働力商品の価値と労働の生み出す価値との差による価値増殖を説明するのが剰余価値論である。逆に言うと,剰余価値概念不要論とは価値増殖を権力関係,階級関係から説くこと,階級関係から収奪を説明することになり,形式的には自由式,契約の自由の原則を取りながら,価値増殖を果たす資本主義経済の特殊歴史性を明らかにできないであろう。
    労働力請求権の売買とする見解も同じである。そのポイントは労働力商品化,労働力商品の価値という概念を認めない点にあるから,剰余価値という概念を使っても使わなくても,階級関係から利潤の源泉を説明することになる。


 



2024年2月3日土曜日

なぜ生産的労働か

  レポート採点を含む生成評価が後1科目残っているが,ほぼ春休みに突入したので,これまでのことを振り返り,今後のことを考える材料にしたい。

 「なぜ(今更)生産的労働概念に拘るのか」と聴かれることがある。

 ここ10年近くそのことばかり発表してきたので「論文読んでくれ」と答えるのも億劫になるが,論文書き連ねても理解されていないとすれば,簡潔な回答を与える必要がある。


 一言で言えば,

価値論を奉じる経済学では,価値形成労働だけでは多様な労働を理論的に把捉できないからである。

  1. 価値形成労働だけでは,商品を生みながら価値を形成しない労働も,商品を生まないから価値を形成しない労働が価値非形成労働として一括されてしまう。また,商品を生まない労働,家事・ケア労働,NPOの労働の中にある違い,相手に寄り添う労働とテキパキとこなされることが求められる労働が価値非形成労働として一括してしまう。
  2. 生産的労働を価値形成労働とを分け,定量的労働と成果との間で量的技術的確定性の高い労働と区別することにより上の職別が可能となる。
    • 生産的労働とは普遍的な,言い換えると資本主義社会に限定されない生産過程という視角の下に設定される。同じく普遍的な概念,労働過程が人間労働の主体性を表現しているのに対して,労働過程を生産物視点で捉え返した生産過程では,主体性を強調する労働過程では人間労働の対象,純粋な客体と人間の「手の延長」として峻別されていた労働対象と労働手段が「生産手段」として一括されているように,主体的な人間労働も「生産的労働」として手段化したもとして捉えられる。これは言い換えると,自己目的性が強く,手段性の低い労働の存在を認めていることになる。不生産的労働である。資本の下の賃労働には自己目的性が強い不生産的労働は存立の余地が乏しいが,賃労働ではない労働,家事労働,ボランティア活動には相手との関係を重んじ,時間の許す限り寄り添いたいという労働,したがって定量性の乏しい不生産的労働が存在する。もちろん,家事労働もボランティア活動も,例えば被災者に一日100人分の食事提供など一定のサービスを達成するには,食材の運搬,整理,加工などにテキパキとこなす定量的労働,生産的労働が不可欠である。家族,被災者に時間の許す限り寄り添う定量性の乏しい不生産的労働ばかりでは所期の目的は達成できず,相手を失望させることになる。定量的生産的労働を土台に時間の許すかがり相手に寄り添遺体という自己目的的で定量性の乏しい不生産的労働も可能となる関係にある。
    • 他方,普遍的な生産的労働の定量性と区別して,成果との量的技術的確定性の高い労働を設定するということは,商品の価値を商品一般の属性としての広義の価値と価格変動の重心を規定するという意味での狭義の価値とに区別した上で,狭義の価値を形成する労働を追加供給が容易な,資本の下の単純労働,無駄を認めない資本の効率性原則で量的に締め上げられた,締め上げることが可能な単純労働に限定したということである。これによって同じく商品を生産する労働であっても,小生産者のような非資本によって投下される労働や単純労働とは言えない労働,熟練労働が価値非形成労働として摘出されることになる。
 

2024年2月1日木曜日

最終講義として

  1月26日,最終講義を行なった。
 15回のテーマの内,どこかを空けて,最終講義とした。
 何を話そうかと迷って「現代のワーキングプア」とした。
 当初は,経済原論における貧困の位置付け(絶対的窮乏化なのか循環的貧困なのか)から発展段階論(労働者の富裕化や企業定着化,熟練・不熟練の別,正規・非正規の別)を踏まえて現状分析へとつなげるべきだが,不勉強と時間的制約のため,現状の話にした。
 また格差と区別して貧困に絞った。自立して(保護がなければ)生活できないというのが貧困とすれば,格差は是正しなけばならないとは言え,格差があるだけでは自立できないとまでは言えない。
 あるいは「生活の遣り繰りが大変」レベルは今までと変らない。子どもを大学にやる,仕送りするのは労働者にとっては以前から大変だった。

 その意味での貧困をワーキングプア論を手掛かりに解説してみた。

 話が長くなるので粗筋のみ述べると,

  1. 後藤道夫のワーキングプア論は,ワーキングプア拡大の背景を,日本型雇用の解体・縮小による「現代のワーキングプア」発生に求める点に特徴がある(90年代までのワーキングプアは日本型雇用の枠外,「周辺的」存在だったとして)。
    しかし,日本型雇用の特徴,解体の判別基準を新卒一括採用,長期雇用,年功序列型賃金に用いたたために,2019年の論文では「現代のワーキングプア」を賃金の年功性が失われた男性ブルーカラー職業群に限定することになった。
    つまり年功性が維持されているホワイトカラーは除外され
    女性労働者は視野の外に置かれている。
    もともと「日本型雇用の範囲を100人以上規模企業の男性正規労働者と男女正規公務労働」とされていたため,働く女性の貧困は,日本型雇用とは無関係な旧来型のワーキングプアということになる。
  2. 橋本健二のアンダークラスは相対的貧困率を指標にすることによりワーキングプアの中心に単身女性がいることを浮かび上がらせた。
    まず労働者階級は賃金によって自身と子息の再生産が可能な存在であるのに対して,非正規雇用は再生産不能な賃金しか得られないとして労働者階級から分離し,アンダークラスと位置付けた。
    後藤のアンダークラスとは非正規雇用から学生や家計補助的な労働に止まる主婦パートを除いた900万人余りである。
    そのアンダークラスの中でも,高齢者や59歳以下の男性非正規労働者に対し,59歳以下の女性(すべて非婚女性)はより一層貧困率が高いことも明らかになった。
    しかし,非正規雇用であれ,なぜ賃金では自身と子息を再生産できないのか,は明らかではない。
  3. 他方,最低賃金に関する資料によれば,賃金の特に低い,最低賃金近傍者(最賃の1.1倍水準まで)は,一般労働者(フルタイム)よりも短時間労働者,短時間労働者の中でも女性労働者に多い。
  4. これは男性長時間労働,女性短時間路務言う「男性片働きモデル」という意味での日本型雇用が依然として健在であることを示しているのではないか。
    つまり「現代のワーキングプア」とは非婚女性,その4割がシングルマザーであり,日本型雇用の解体によって生じたのではなく,その残存によって存在が作り出されているのではないか。