2022年12月18日日曜日

生産論独自の意義・その1

  先週初め,酷い頭痛がして寝込んだ。
 熱が出たらコロナ検査キットを申し込もうとさえ思ったが,体温は一向に上がらず,静穏1日半で復帰した。ジム復帰には3日くらい要した。
 今から思うと過労だった。
 

 打って変わって今週は授業準備,後処理だけで終わった。
 一仕事終えた,と思ったのか,しばらくアイデアは浮かんでも文章にする気がしなかった。

 今回の仕事を振り返ってみると,生産論について改めて考えさせられた,ということだ。

 生産論とは,宇野弘蔵経済原論の一構成だ。
 『資本論』では冒頭商品論で,2商品の交換関係から価値の実体として抽象的人間労働を抽出したのに対して,資本の生産過程における抽出を主張した。
 商品交換とは,貨幣による交換であり,物々交換ではないこと,
 冒頭で価値実体が抽出されたため,続く価値形態論(第1章第3節)では,価値形態IIの逆転による価値形態IIIの導出など等労働量交換が保証されたかのよう展開となり,「貨幣の謎」(商品が貨幣になると商品とは対照的な直接交換可能性を取得すること)解明がむしろ阻害されることになったこと
が主な理由であった。
 宇野は,『資本論』では第1部「資本の生産過程」で展開されていた商品,貨幣,資本の分析を,社会的生産過程を前提にしない私的流通主体の行動を分析する流通論として分離独立させ,それ以降の叙述および同第2部を生産論の中に組み込み,基本的に同3部に当たる分配論と合わせて3篇構成とした。

 そのため,生産論の意義は,第1篇商品と貨幣および第2篇貨幣の資本への転化(第1章商品から第4章貨幣の資本への転化)を流通論として独立させたことに力点を置いて理解されていた。
  言い換えると,生産論独自の意義は余り意識されてこなかったように思う。
 今回の仕事,秋の学会報告の準備およびその後ののまとめでは,その独自の意義を考えさせられた。


 

 ,


ないので