2011年3月31日木曜日

原風景

人はそれぞれに原風景がある。

自分の場合,山形と言えば,なぜか冬の道路のノロノロ運転を思い浮かべる。
赴任したのは4月だが,車を運転するのも山形に来てからだし,冬道を運転するのも初めてだ。スタッドレスタイヤでは,スパイクタイヤと異なり,急ブレーキを踏まないよう速度を落とすので,街は渋滞気味となる。

仙台と言えば,市街地の商業ビルや施設ではなく,これだ。

山形で6年過ごして,事情により仙台に越したとき,住んだのが向山というところで,
鹿落坂(ししおちざか)から臨む霊屋橋(おたまやばし)とその先の市街地が原風景だ。
もちろん,広瀬川の蛇行ぶりも欠かせない。

鹿落坂を登り切ったところに住んでいたので,向山と言っても最も市街地,米ヶ袋よりだが,
中心街と住宅地八木山へのバスの便がは多く便利だった。
反面,鹿落坂は歩道がなく路肩帯だけだったので,
自転車で降りるときは背後の車を感じながら必死でハンドルを握っていた。



大地震から半月経って,その鹿落坂が崖に経つ旅館が崩落したため通行禁止となっていると聴いて,昼食後自転車で駆けつけた。



立ち入り禁止のため
鹿落坂の頂からは撮影できなかった。
愛宕橋から八木山香澄町まで出て裏道を通れば頂に辿り着いたかもしれないが,
今回は時間がなかった。

早く鹿落坂を自転車で駆け下りたい,
ハンドル握っている手を強張らせながら,
と願うばかりである。

 3月30日 自宅IP電話が大地震後,繋がったり繋がらなかったりで電話で問い合わせるも,NTTとプロバイダーの間で盥回し4,5回。「ぜんざい公社か!」「電話会社が転送できず,別にかけ直せとは何事か!」仕舞いには切れてしまった。夕方ドトールコーヒー経由でジム。昨日構想が大きく動いて気分は昂揚したもの,一晩明ければ,いくら曲解してもせいぜい1節で論文にはならないと落胆。この繰り返し^^;。

2011年3月30日水曜日

陸の孤島

温泉旅行の仲間からGW旅行の打診が来た。

「何を暢気な」と思われるかもしれないが,
実際状況はかなり緩和していて,都市ガスが未だに復旧しないという以外は限りなく日常生活に復帰している。

しかも,来年度の開講が2週間ないし4週間繰り延べになったために,GW開けるまでは大学はそれほど忙しくない。

しかし,具体的な旅程を組もうとすると,直ちに行き詰まった。
仙台空港はようやく流された自動車1000台を排除し,滑走路を3,000mに伸ばし救援用の発着を確実にした段階で民間航空機の利用については「民間旅客便の再開は未定」。
代替的に利用され臨時便が出ている山形空港はそもそもキャパが小さくGWは予約殺到必死。
東北新幹線のうち未だに運休している那須塩原-一関間は4月下旬には復旧するとの発表があったが,本数についてはよくわからない。
高速道路は一般車にも供用されて異様になったが,肝心のガソリンは何時間も待って給油20L限定。

勇気づけようと,温泉旅行に誘ってくれるのは有り難かったが,
今の状況では学会出張さえままならない。
さしずめ「陸の孤島」にいるようだ。

 3月29日 自宅研修。昼,中央郵便局に出かけたついでに母の希望で吉野家牛丼。郊外の店はプロパンガスのため営業を続けられたようだ。11時半頃,店のテーブルは空いていたが,労務者風情一挙に10名。他方持ち帰りは「20分程度お待ちいただきます」。3つ前の予約は牛丼15個。満腹後は机上でボー。ドトールコーヒーによっても居眠り。しかしそのおかげで妄想に耽ることもできた。今までのノートがしょせん抜き書き的だったのを強引に編集。ちょうど優れた似顔絵は一件誰か判らず,よく眺めて初めて判明するように,原著者本位の構成を曲解して初めて自分のものになる。妄想家の言い訳かな^^;。夕方,久しぶりにジムでトレーニング。半月ぶりなので最初は流し気味に,と思ったが,いざ始めると普段と変わらないペースに。但しさほど汗を掻かなかった。「基礎代謝が落ちたかもしれませんね」インストラクターは率直^^;。

2011年3月28日月曜日

消し忘れたスケジュール

3年ぐらい前からGoogelカレンダーを用いるようになった。

仕事でなくても熱中していると,講義や会議の開始時間に気付かず,遅れることがままあったので,手帳から指定時間の前にアラームを鳴らしてくれるパソコンカレンダーへの切り替えはかなり早い時期に実施していた(ソフトでいえば,月下,フリーウェアのSchedule Watcherなど)。

しかし,ネットに対応していないスタンドアローンのソフトでは(ネットに繋がっていない状態)では,研究室と自宅でなど複数のパソコンで作業している場合には設定したスケジュールが相互に反映されないことがあった。

そこでネットワーク対応型スケジューラーに切り替えた。
これもいろいろ試したが,最終的には最もよく使うフリーメールGmail同じGoogelのカレンダーに落ち着いた。

Googelカレンダーは,例えば,予定開始の20分前,13分前,7分前と任意の時間に画面に予定をポップアップさせたり,指定の音源ファイルをアラーム音にして鳴らしたり,Eメールや携帯メールに案内を送信してくれる。

昨日は「14時から東京経済大学 第3研究センター 2階 321号室にて杉並研究会が開催される」とのメールが,設定通り220分前,2時間前,90分前に携帯に届いた。

次いで,「3月28日から30日までSGCIME研究合宿が開かれます」とのメールが2度届いた。こちらは開始時間を指定せず,日にちだけ設定していたので,前日にもアラームが作動したのだ。

何れも今回の東日本太平洋岸大地震によって東北と首都圏との交通網が寸断され,中止の憂き目に遭っていた。

中止になった大学の卒業式,入学式のGoogelのカレンダーから削除していたものの,
なぜか研究会や研究合宿の方はスケジュールを削除するのを忘れていた。

自分が報告すること以外にも,最近再び読み返した論文の著者に気に掛かる点をいろいろ尋ねることができる,
と楽しみにしていた研究会や研究合宿の「開催通知」が届いたことで,
歴史的な大地震がほんの2週間前だったことが想い出された。


 3月27日 午前自宅,昼食後思わず午睡。17時閉店のドトールコーヒーに15時過ぎ慌てて駆け込む。併設された生協には品切れが違った食パン,冷凍食品も並んでいた。生鮮品では仙台名物のささ蒲は相変わらず見当たらず,代わりに新潟産のちくわなど。

2011年3月26日土曜日

さまざまな現実

本人及び自宅がほとんど被害を受けなかったから沿岸部以外被害は軽いと思っていたら同じ区内でも,むしろ中心地に近いのに自宅の書斎が被災したり,勤務校が依然入構禁止になっているところがあるに気付いた,ということは以前も述べた。

その後も,ネットで情報を漁っていると,
JR運休のため,数十分徒歩通勤していたり,
通勤に及ばずという通達されていたり,
さらにいまから「来月は給料が出ない」と通告されたり,
さまざまな報告が挙げられてくる。(もちろん言い放しの世界ではあるが)

中心街さえ店が開けない状況では,
時給月給制の非正規雇用にはまず手取りの減少が,ついで雇用の先行きが心配になる。

学生もさまざま。
今朝のNHKニュースでは,宮城労働局の23日時点の調査として,被災企業による内定取消し27名,採用時期延期14社167名(高校生,大学生計)。被災状況が明らかになれば,さらに増える見込み。昨日の朝日新聞地方面「就職控え学生・会社側困惑」。

地域の非対称性と補完性を指摘されているのは大川健嗣(たけつぐ)山形大学名誉教授による「東京支えた東北を心に刻め」(朝日新聞3月26日付オピニオン面)。

 3月25日 内バスすし詰め。春日町から県庁前まで徒歩。高速バス行列50名弱。今日の卒業式、卒業祝賀会は中止が決まっていたが,こちらは既にブレザー姿^^;。
 3月26日 午前中,母を連れて,営業再開したスポーツ事務系列店へ久しぶりの「日帰り入浴」。午後,ドトールコーヒー。急遽「16時までの短縮営業?」と呼び戻されて歯科通院。

2011年3月24日木曜日

認識と現実のズレ

行列2時間超の買い出しは週一回と木曜日自宅研修としていたが,
「もう近くの生協で何でも買えるから買い出しには及ばない」で拍子抜け。

午前中文字通り自宅にて研修。
今月はずっと昔読んだ消費における労働に関する論文を読み返したり,ノートを書き換えりしている。
読み返す度に読みの浅さを実感。
改めて意図がわかったという面と依然としてすんなり理解できないという面がある。
まあモヤモヤを感じているということは脈がある,ということ^^;。

昼前,母の使いで駅前のドラッグストアまでmyイーグルス2号出動。
中心地なのに文字通り「シャッター街」。
開いているのはドラッグストアくらい。

ついで,宮城球場方面に進んで今週初めメニュー限定,時間限定で営業再開した小田原のファミレスへ。
ランチランチ終了時間の15時15分まで粘る。
一旦帰宅後,今日から営業再開した近くのドトールコーヒーで閉店時間17時まで。

スーパーはそんなに並ばなくても買い物ができるようになった。
点数が規制される商品も少なくなってきた。
ファミレス,コーヒーショップの一部は営業再開を始めた。
また高速道は一般車両にも開放されたし,
宅配便は自宅集配を再開した。

何より電気と水が復旧し,通勤のバスが増便されて以来,
まだ都市ガスは復旧せず,お風呂に入られなくても
こちらの気持ちはとっくに平時に復帰したつもりである。
自宅で食事できるのが大きい。

未だに避難所にいらっしゃる方が沢山いらっしゃるし,
JR東北新幹線は未だ復旧していないので,
復興を待つ街にいることは明らかなのだが,
自分の行動自体は日常に限りなく復帰しているので,
たまに繁華街を通ると,
連綿と続くシャッターが下ろされた店舗やガラス窓を新聞紙で覆った店舗に
改めて「震災の街」にいることが思い起こされる。
ちょうどプレートのズレが地震を齎すように,
認識と現実のズレが衝突してが頭が大きく揺すられたような気分になる。

2011年3月23日水曜日

お辞儀

都市ガスが復旧していないのでお風呂に入れない。
そもそも通っていたスポーツジムにはお風呂がなかったので,シャワーで済ませていた。
自宅で入ったのは3週間近く前だ。

そのままでは不潔なので時々水しかでないシャワーを浴びたり,
洗面台で頭を洗っていた。

母は寝る前電気ポットで沸かしたお湯の残りで身体を拭いていたようだが,
やはり風呂に入りたい,という。

先週末,秋保温泉の,昨年末利用した旅館が「日帰り入浴」のみ営業を再開したことがわかった。
問い合わせたところ,先着400名に限り受け容れる,という。

週末,休日は込むのがわかっていたので,連休明けの22日,訪れてみた。
11時より開始で11時半到着では遅すぎたかな,と思ったが,
平日なので待つことなく入浴できた。

入ってみて戸惑ったのは湯船にお湯が6割くらいしか入っていなかったこと。
秋保地方はまだ水道が復活していないそうで,
シャワー,上水道が利用できないことは告知されていたが,
みなが湯船から温泉のお湯をすくって身体を洗うので,
湯船には温泉のお湯が滝の如く降り注いたものの,
水位が上がるには至らなかった。

普段は湯船に浸かっては出てまた浸かる,を繰り返し,温泉を満喫する質だが,
お湯の量が少ないと「温泉に浸かった」という感慨が湧かず,
また自宅のお風呂のような落ち着きも得られず,
銭湯に入ったかのように,身体を洗って再度湯船に浸かっただけで退場してしまった。

他方,女湯はお湯がたっぷり注がれていたようで,
母はゆっくり入浴し,
帰り際には従業員一人一人に「有り難うございました」「いい湯でした」とお辞儀していた。

行儀の良さは生まれよりも温泉の水位に規定されているのかもしれない。

2011年3月22日火曜日

異口同音も厭わない

今朝から母に頻々と電話が掛かるようになってきた。
電気復旧直後は通じていたIP電話がしばらく通じず今朝になってまた通じるようになったかららしい。

電話で安否が聞かれる度に母は
・自宅の被害は大したことないんですよぉ。
・近くに生協は2,3時間も並ばなきゃならないのに生鮮品をほとんど置いていないんですよ
・皆さん「足りないモノを送ろうか」と仰ってくださるんですけど,宅配便が受け付けていないので(22日から営業所持込み/受取が可能となった)
・息子がスーパーに買い出しに行って2時間くらい並んで食料を買ってくれています。
・山形行きは,70数便が20から30便に減らされているんですよ。
・依然としてガスが止まっていてお風呂に入れないのが辛いですねぇ。ポットの残り湯でカラダ吹いています。
・日帰り温泉でも行こうかと話しているんですが,休日中は行列が長そうなので。。。

ひっきりなしに掛かってくる電話の,異口同音の問い合わせに母も同じようなフレーズで近況を紹介しているが,
ちっとも厭わしい,という風ではない。
「心配して声を掛けてくれる」と嬉しさを隠そうともしないから,端で見ていて恥ずかしくなる。
しかし,住み慣れた土地を離れ,友人知人がいない街に住んで1ヶ月余りでの被災,
と考えてみれば,至極もっともなことであろう。

 3月22日 TVやネットからジムの系列店が翌日から営業を再開するとか,近くの生協が店内での買い物を再開するとか(それまでは店頭の和語に阿あるものだけ販売),都市ガスの復旧が1ヶ月も掛からず24日から順次進められるなどの事情がわかってきて,「被災」「耐久生活」という色合いが徐々に薄れてきた。もちろん避難所にいらっしゃる方は今なお物資,燃料が全く足りない状態のようだが,自宅にいる(ガソリンもなく,いざるをえない)者にとっては徐々に「兵糧攻め」解除の気運を感じる。他方で,復興情報が気になる余り,仕事に熱中できないという弊害もあるが,これは地震以前からある個人的問題だった。

2011年3月20日日曜日

物色徘徊

さっさとトースター購入した後,
無料駐車時間まで余裕があったので駅前を歩いてみた。

日曜日の正午前,
仙台「アメ横」は鮮魚店,八百屋,果物屋何れもに並ばなければならない店は少なかった。
駅と垂直に走るアーケード街はシャッターを下ろしている店が多く,
辻のここそこに弁当,丼物を売る出店,というには小さい椅子1,2脚分のスペースの売り場があったが,
買うものは少なかった。
食糧不足とは言え,行列に並べばお米は入手できるので,丼物,弁当では満足できないのだろう。

開店前から行列が出来ていたのは決まってドラッグストア。

日曜日なのでカップルで買い出し
マスクにデイパックという出で立ちが目立った。

いつもは社会人でデイパックは少数派だが,
震災後の街ではありふれた姿になった。

物資不足でも並べば入手できるようになり「兵糧攻め」は解かれつつあるが,
店がほとんど開いていない現状では,
繁華街も未だ「消費する空間」ではなく,何が売っていないか「物色して回る街」になっている。

一度目の混乱は冷静でも

昨19日,山形行き高速バスを待つ間に日本経済新聞文化面に載った,仙台在住の芥川賞作家佐伯一麦のエッセイ「冷静な混乱の後」を読み,強い共鳴を覚えた。

佐伯は仙台郊外の作並温泉の露天風呂に浸かっている最中に東日本大地震に遭遇した。
観光客の車に同乗して自宅に戻る道中には,道路の段差やブロック塀や建物の倒壊を目の当たりにしたが,むしろ揺れの大きさからすれば「被害の程度は少なくて済んだように思われた」。
その印象は大量の書籍やCD,食器類が散乱した自宅に戻っても変わらなかった

しかし,停電中,手巻き充電式の非常用ラジオから,少しずつ被害の状況が明らかになるにしたがって,認識を一変させた。
また,麻になり,うみまで見通せる景色の中から,海近くの多くの町が騒然と消滅しているのを見て慄然とした。
また,街を歩けば,避難所の様子が窺われたり,ガソリンを求める人の列が認められたりした。
さらに,目に見えない汚染の被害が新たに広がり始めた。...
「いま私たちは冷静な混乱の後にいる」,と。

「冷静な混乱」とは,妻同士がニット作家仲間の英個人男性で地震時に一緒に露天風呂に入っていたベンが,地震に遭ってもパニックに陥らない日本人の印象を”clam chaos”と表現したことに基づく。

細かな点を除けば,なまじっか当地にいたために地震の被害認識が自分の周辺に限られていたものの,日が経つにつれ行動範囲を広げると,認識を新たにせざるを得なくなった点は同じだ。
停電中,手巻き充電式ラジオで情報を探っていた点もである。

しかも,まだ行き場の定まらない避難所,未だに電源の復旧していない地域,自宅で生活しながら物資やガソリンを求めて行列に並ぶ人々,そして収まらぬ福島原発の炉心融解現象を念頭に浮かべると,「冷静な混乱」が続くとは思えない
われわれはその「後にいる」。

まだまだ続く復旧や原発にまつわる問題は,
われわれにこれまでとはまた違う心の持ちようを試そうとしているのではないか。

 3月19日 臨時学科会議および臨時教授会のため朝7時前から始発バス停に並ぶ。
水曜日は同時刻400-500名行列だった。今日は200名弱。半分として待ち時間も2時間の半。山形に着くと,土曜日ということもあってか,正門斜め向い側のガソリンスタンドの給油待ちの車が約200m。帰りスーパーで茨城産ほうれん草を購入した直後,母より茨城産に規制値を超えた放射線量検出されたとのメール(≧◇≦)。
 3月20日 地震で自宅の皿1枚割れなかったと公言していたが,後からわかったのは電子レンジの上に載せていた電気トースターが落ちて外枠が外れていた。それでも使えなくはないが,もともとガタが来ていた.何と「1998年産」。金曜日からヨドバシカメラとともに営業を再開したヤマダ電機にて新品を購入。単純な機能でよかったのでセールス品で済ます。今日になってブログばかりかGmail,Googleカレンダーにログインできなくなっていることに気付いた。あれこれ試みてもダメ。そこで一時的に「応急原論」を開設すると同時に,なおトライアル&エラーを続けて,パスワード変更でようやく復旧。慣れぬFACEBOOK使いでいろいろ操作したことが,不正利用の疑いを掛けられ,ロックされたのかもしれない。

2011年3月19日土曜日

解かれつつある兵糧攻め

避難所で過ごされる方はまだまだ辛い生活を送られているだろうが,
自宅で過ごしている者にとっては,状況は徐々に改善しつつある。

地区によって状況は異なるが,
自宅近辺では,地震翌々日,日曜日の夜には電気が普及してポンプが汲み上げる水道も出るようになった。
火曜日から東北各地への都市間バスが運行を再開した。
湾岸部の製造工場が全壊した都市ガスの復旧にはなお1ヶ月程度掛かると公表されているため,
風呂を沸かすのは難しいが,それ以外では自宅で日常生活を送っているように見える。
ただ,食卓に並ぶ食事は乏しく,かと言って外食もままならない。

というのも,食料の入手が難しく,ガソリン不足のため外出もままならないからだ。

自宅の被害は大小あっても,避難所に移らなければならない程ではなければ,
救援物資を受ける立場にはない。

「物資は自己調達」を強いられているだが,そもそも小売店の棚はすでにほとんど商品がない。
高速道路が分断され,商品の補給が進まないので,「ある物を売る」しかないからだ。長蛇の列に並んでようやくワゴンの中の特定の商品か,一定の品数の商品を購入しているにすぎない。

ガソリンの補給もままならないから通勤も容易ではない。
勢い買い出しに出る以外は自宅に籠もり,乏しい食材で遣り繰りするしかない。(調理には卓上コンロや電磁調理器をもちいているようだ)

まさに「兵糧攻め」に遭っている気分であった。

しかし,木曜日くらいから少し少し状況が変わってきた。
特定の商品しか売らない,選ぶ余地の乏しいワゴンセールスよりも,客を店内に入れ点数ないし所要時間を絞った上で商品を選ばせるスーパーが増えた。また購入可能な品数を増やすようになった。
また,都市間バスは高速道路を利用できるようになった。

高速道路を利用できる車両の規制「緊急交通路」が緩み,
支援物資輸送車両のみならず,都市間バス,日用雑貨搬送トラック,タンクローリーも高速道路を利用できるようになったからだ。

小売店の商品補給,すなわち仕入れを遮っていた運送車両の規制が緩められたため,
商品やガソリンが業者には徐々に行き渡り,
小売店舗が販売する商品の種類が増えたり,客が購入できる品数が増えた。
中心街ではメニュー限定ながら開店する飲食店がポツポツ現れだした。
地震が発生して1週間目の18日,金曜日には遂に家電量販店,ヨドバシカメラとヤマダ電機が営業を再開した。

依然としてガスが使えない,大型小売店には2時間程度の行列が必要などの制約はあるものの,
食料品購入のみと見通しがつき,
兵糧ゼミをしかけてきた敵陣の囲いが徐々に遠のいていきつつある予感がする。

2011年3月18日金曜日

普段から難しいこと

暢気な性格と情報不足で自身の生活に不安を抱かないばかりか,国道4号線より内側,西側は大した被害もないだろう,と高をくくっていたが,そうではないとようやく気付いた。

市内の2つの私立大学の先生によれば,ご自宅と研究室はともに地震で書籍等が散乱して整理整頓に相当の日数と労力を要するようだ。
そうなると,契約したマンション会社が提供する規格が優れているのかな,と一時は悦に入っていたが,同じマンション会社でも某私大近くで昨年竣工したばかりのマンションは被害が大きかったらしい。となると,単に立地の違いのようだ。

一昨昨日,5時間待ってダイエーでお米をゲットし,自宅近くの裏道を急いでいた時,小さな米穀商が開いていた時は脱力した。

一昨日は,山形行のバスに乗るのに朝7時前から2時間余り待ったが,11時頃,始発バス停に着いた同僚は90分待っていただけらしい。

既に冷凍庫にある以外の,肉の調達は諦めていたがあるところにはあると昨日知った。
駅前のアメ横は行列は長いが,肉でも野菜でもふんだんにおいてあるらしい。
セブンイレブン系で郡山が本社の地方スーパーは店の棚が空っぽではないらしいことも昨日わかった。

余計な行動,余分な待ち時間はどれもこれも情報不足から招いた。
如何に地域に根ざした生活をしていないか,痛感した次第だ。
他方,怪我の功名というべきか,長い待ち時間の間に,新聞を隅々まで読んだり,
読みかけだった小説を読み通したり,
同僚が出版した本を読み通すことができた。

生活情報に疎いというのは趣味や仕事の情報に浸っている顛末なのだろう。

 3月17日 自宅研修。気付いてみると自分は住居も生活環境も被害が少ない部類に属する.恵まれた環境にいるのだから仕事に集中して然るべきであろうが,これこそ普段できないことであった。普段出来ないことを緊急時に期待するのは身の程知らず!,と言うべきであろう。自宅待機が長くなりそうだから,出来ることから一つ一つとは某元タレント議員の至言。
 3月18日 とつぜん高熱を出し慌てている母を病院に送った後,ネットで品物が豊富との情報を得た地方スーパーの行列の人に。2時間弱で入店できたが「一人15品」という制限がついていた。しかし,欲しいものは15品もない^^;。散々迷った末,結局、牛肉、豚肉、卵、レトルトハンバーグ2ヶ、豆腐2ヶ、バナナ、3食パックうどん2ヶ、ナメコ、椎茸、蒲鉾2、お茶ペットボトル。母を拾って帰宅。

2011年3月16日水曜日

行列の人

暢気な性格で日曜日夜,電気が通った途端,ポンプが作動して水道も出るようになり,水を汲む必要が無くなると,ニュースを見たり,中古で購入したノートパソコンの設定をして日々を過ごすようになった。
母子二人なので,食事はあり合わせのもので済ませられるからだ。
ところが,「お米もあと数日」と聞いて,ニュースで映っていたダイエーに買い出しに出ることにした。

東北地区は,鉄道が運休し高速道が閉鎖され首都圏と分断されているため,物資補給の見込みが立たない一般にコンビニ,スーパーは店頭の商品がなくなれば,売るものがなく,「閉店」休業状態に追い込まれている。ところが,ダイエーは一般道等を利用して夜間物資を補給しているようで15日から「その日の商品なくなり次第閉店」で営業を再開した.かつてのスーパーの雄,ダイエーも現在は東北に一店舗しか保有していないから補給即販売という綱渡り商法が可能となったのだろう。

16日,寝坊して8時過ぎに駅前に着くと,すでに長蛇の列が勾当台公園のすぐ手前,バス停で言うと商工会議所前の先まで連なっていた。
並ぶのをためらっていたが,行列を整理している店員の話では,「お客さんは1550番目くらいだけど,昨日は3000名が利用できました」「乾電池は売り切れ,ペットボトル等は数量制限していますが,その他は何でも買えますよ。昨晩も商品が搬送されていますし」。その言葉を信じて待つこと5時間!ようやく入店できた^^;。

小雨が降ったり止んだりする中,吉村昭『敵討ち』(新潮文庫)の表題作。何処にいるかもしれない仇敵を捜す過程の壮絶さはもう1作「最後の仇討」の方がよく描かれていたように思う。その前後に日本経済新聞。8面しかないので全て読めた。テレビ番組表と広告以外^^;。それでも時間が余る。

13時半近くなってようやく入店。お米コーナーが空っぽだった時は愕然としたが,弁当屋パン,野菜をかごに詰めてレジを通そうかという時になって目の前をお米を抱えた客が通った。補給されたようだ。直ちにコーナーに引き返して庄内産ひとめぼれをゲット。

翌16日は教授会。7時前に山形行きバスの始発地,県庁前に着くとこれまた長蛇の列。ほとんどが若い人。またほとんどがスーツケースかキャリーバッグを牽いていた。どうやら食料に困った仙台在住の学生が一旦仙台から引上げ,実家のある山形,あるいは山形経由で首都圏やその先に出ようとしているようだ。

並ぶの止めようかとも思ったが,すぐ後ろの客が携帯電話で「400名くらい並んでいるほ。1時間4本くらい運行しているんでしょう。1バス36名くらい乗れるから1時間で360名。2時間ちょっとだよ」と話していた。余り利用していない人だな。1台50名以上乗れるんだよ。なら2時間も掛からないじゃんと思い直して並ぶことにしたが,結果は同じだった。
そもそも計算式が間違っていた^^;。36名×4台は144名だ。彼の計算では3時間弱掛かるはずだ(400÷144)。50名でちょうど2時間だ。故意ではない錯誤の上での話に騙されてしまった。

山形に着くと,コンビニの棚は空っぽで,また行列の最後に着く生活が続きそうだ。

2011年3月14日月曜日

サステイナブルなチープさ

手動発電式ラジオは重宝した。
停電が2,3日も続くと携帯電話やライトの電源である乾電池を次々と消尽して残り少なくなっていた。
母が持ってきた手動発電式のラジオはライトもついていたので使い出があった。

しかし,バッテリーの容量こそラジオこそ数分保つものの,
ライトを付けると1分も保たなかった。とも
そのたびにハンドルを回して発電する必要がある。
それでも月の灯りだけでは心許ないので,必死にハンドルを回して明かりをともしながらラジオに耳を傾けていた。
それだけに日曜日の午後にはハンドルを回しても電力が蓄積されなくなり,
更に力を込めてハンドルを回してハンドルの柄が取れたときには途方に暮れた。

結局,ハンドルの根の部分,わずかな突起を指先で廻しながら電力を供給しニュースに耳を傾けることにした。

「あっ,点いた」。20m先のマンションに明かりが点っ他のを見つけて母が思わずつぶやいたが
自宅に電気が普及し,ポンプが作動して水が出るようになったのは更に2時間くらい後の夜8時頃になった。
数分毎に何度も何度もハンドルを回したような気がするが,土曜日午後帰宅してからわずか1日余りだった。
名の知れたメーカー品ではなく,ライト付きとはいえ無意味に大きくデザインも洗練していない。



使い始めて1日ちょっとでハンドルが折れるのも頂けない。
母がどこから貰った品物らしい。
自分で買うのだったら,お金出してもこんなチープなものは買わなかっただろう。
コンパクトだと単なるライト付きラジオより更に大きくなり不格好でもあるので食指が動かなかっただろう,。
しかし,母子二人,薄暗い部屋で生きながらえるのに必要な最低限の灯りと情報を得るにはピッタリの一品だった,.

あっという間

 11日夕停電していても開いていたセブンイレブン山形東原店
12日大野目で給油した後、仙台に立つ前にスーパーヤマザワで買出し。店頭で数種のみ販売は 
13日昼、藤崎百貨店玄関前に張られた河北新報を食い入るように読む人々 
ガラスが割れ落ちた広瀬通フォーラス 
初めて見た道路(歩道)の陥没は勾当台公園 
 

間引き運転を始めた山形行きバスを県庁前バス停で待つ人々 
営業していた国分町のラーメン屋 
青葉区役所の6つの会議室に設定された避難所。ここには余り避難民がいなかった。 

2011年3月13日日曜日

手動発電ラジオを頼りに

3日目、3月13日、日曜日、遅く起きて昼過ぎ、自転車で街中に買い出しに出てみたが、成果空しく帰宅。
開いているコンビニも、照明はついている分、ガラガラの棚が目立つ。

もとより母と二人に限れば、生き死にレベルの不安は全く感じない。

しかし、受験生もそうだが、青森、岩手、宮城、福島4県の太平洋沿岸部出身者の在校生は実家が、帰省中に本人が被災した可能性が大である。そうなれば、経済的にも精神的にも就学を継続することが困難になりかねない。こうした心配はスポーツジムにもある。

ハンドルを回して動力とすラジオをずっと聴きながら、思うのは「生死は選ぶことが出来ない、選ぶ暇もない」ということであり、「コミュニティにおける絆の不確かさ」である。

延々とNHKラジオを聴きながら

2日目も仙台行き高速バス全日運休、自家発電も後一晩と分かり、昼前同僚の車で仙台に向かった。
関沢トンネル、国道286-457-48の道中は予想された混雑、建物の倒壊、路面陥没一切なかった。ただ沿道のスーパー、コンビニには買い出しの列。
マンションは外観も中の母も異常なかった。同じ東北、仙台でも沿岸部と他とは全く異なるようだ。
青葉区も携帯からは電話もネットもほとんど通じないないばかりか電気ガスが通じない(水道1階のみ)。区内には電気が復旧したところもあるようだ。
母が近くの生協で買い出しを済ませていたので手持ち無沙汰。夕方までは小説を読んでいたが、暗くなってからは手動発電式ライト付きラジオでNHK放送を聴く他なかった。
個人的には電気復旧を待つばかりだが、沿岸部は避難民の救助、東日本としては福島原発の暴走抑止が課題となっている。

2011年3月12日土曜日

延々とNHK速報が流れる会議室

自宅に帰られな者,市内バスは動いていたから仙台から通っている者が本部会議室に集められ世を過ごすことになった.
四紙の恐れがあったため,学部等は閉鎖となり,自家発電設備がある会議室に集められたのだ。
のちに体躯間に避難していた学生も移って着て総勢数十名.
椅子に座っ手休養をとった.
ガスストーブ1台ついていた.

2,3日前より大きい揺れが長く続いたので「大地震」であることはすぐ分かった
電機が消え,「建物の外に出るように」との館内放送により当初腸並木に出たが,
やがて玄関前に集まり教員は点呼がとられた。
1時間もすると,事務長より「建物に入ってもYいが」
(つづく)

2011年3月11日金曜日

親孝行かはともかくとして

昼食後の本当にボンヤリしたところ,携帯電話にメールが飛び込んできた。

「息子が東京大学理科1類に受かりました」.小中高と公立学校で,塾通いも中学で半年高校で1年だから「親孝行の部類でしょう 嬉しくてメールしてます」。

早速お祝いの返信をした。

実は差出人と福岡時代の知人で,その当時1度(後1度)の計2回くらいしか会ったことがない。
にもかかわらず,僕のアドレスも一斉送信メールのTo;欄に記してあった。
よほど嬉しかったのだろう。

それは息子が最高学府に進んだからばかりではない。
プライバシーが絡むので詳細は省くが,
生い立ちや仕事,家族関係などいろいろな面で差出人はさぞ悔しい思いをしてきたらしい。
そんな中で唯一の,と言っては失礼だが,自慢は息子,娘がいわゆる「出来の良い子」であること。

しかし,
息子さん(後に続く娘さん)はそれぞれ自身の人生を歩むのであり,親の事情は関係ない。
であればこそ(親の見栄で進学したのではないからこそ),入学で満足せず,
その後も自身の能力,関心を伸ばすことに貪欲であって欲しい。

 3月10日 振替休暇のため遅く起床。そのまま自宅にてSGCIME合宿の準備。
午後は近くのドトール・コーヒーに出向くも眠くなって妄想。夕方ジムから帰宅後はそのまま休養。

2011年3月9日水曜日

因果応報


暢気な性格なのか,
物事が少しでも進むと
気が緩んで他のことに手を出してしまう。

春合宿の準備も全く手を付けておらず,
その先の構想も章立てすら出来ていないのに
前の晩,少し歯車が回転した気がして
今日は「ちょっと気分転換に」と
毎日毎日眺めているMS-Windowsとは異なる
シンプルで軽快なOS,Linux系のUbuntu導入を試みた。

古いバージョンは雑誌付録で持っていたが,
WEBから最新バージョンをISOとしてダウンロード。
CD-ROMに焼き付けてインストール。
いやその前にHDD内にUbuntu専用のパテ-ションを確保。
そしていよいよ再起動し,インストール本番
ところが,Windowsを起動してもexploreの調子がおかしい。
画面をクリックするとexploreが終了し,マウスが反応しない。
印刷命令を出してもハングアップ。

そうこうするうちに
予算残で注文していた中古のノートPC,東芝dynabook SS RX2 SK140E/2Wが届いた。
ノートPCには「光ドライブ」不要というのが持論で
携帯するには軽い方が良いからだ。
大きなファイルを扱うことは滅多にないから,必要になった時だけ外付け光ドライブを接続するなりUSBメモリを利用すればよい。
軽さよりも更に重視するのがバッテリー保ち。
ファミレス残業が多いからだ^^;。
そうなると,選択肢はpanasonicのレッツノートに事実上限られるようなものだった。
個人的にも,10.4インチ液晶のB5サイズノートPC,レッツノートR8を利用している。

しかし,中古はいつでも出品されるわけではない。
panasonicの場合,R8以降の機種はすぐに売りさばけた。
R8は2台出品されているが,個人保有と同じ機種では芸がない?
いろいろ調べると,東芝のこの機種も液晶が12インチと大きい分,重は1kgもするものの(990g!),
バッテリーはカタログスペックでは13時間持つ(R8は930gでカタログ8時間,実際2時間少々)。

ところが,この機種はなぜかWindowsの2世代前のバージョンXPへのダウングレードモデルで,
せっかくなら最新のWindows7に戻そう(リカバリーという)としたが,
外付けDVDドライブにリカバリーDVDディスクを入れてもリカバリーが起動しない。
何度試みてもダメ。
外付けドライブが電源バス供給だからかなとか
確かブート可能なドライブだったはずだけど,買ってから2,3年経つから記憶間違いかな
とか原因をあれこれ考えても埒が明かず,
「繋がりにくい」のを承知でサポートに電話。
(実際は直ちに繋がり,起動時に電源+F12キー同時押しすればリカバリーは起動することがわかった)

こうして,デスクトップもノートPCも余計な作業をしているうちに
どちらもトラブって時間を空費。
雪が降り出したこともあってジム通いを諦め,ドトール・コーヒーで呻吟することになった。

1年前には催促に近かったCPUを内蔵するデスクトップに大きな液晶と,ゆったりしたキーピッチのキーボードが付き,思いつきも直ちに印刷できるレーザープリンタが整った研究室で余計なことに現を抜かしていると,
人手出入りで落ち着かず雑然としたコーヒーショップでB5版ノートの小さいキーボードを無心に叩かざるをえなくなる,因果応報の見本のような一日だった。

 3月8日 午後,山交バスの営業課長来訪。山形仙台圏交流研究会での「輸送者による仙台客誘致戦略」に関する報告は来週なのだが,我々の関心を確かめるためにわざわざ出向いて来られた。テーマに関連してこちらが思いつくままに種々質問したところ,「報告のイメージが出来てきた」とのこと。その後,研究生,ゼミ生来訪。研究生は大学院進学後の副指導教員について。ゼミ生は借りていた研究室の図書返却。久しぶりにあったので近況報告の方が中心でここでは割愛せざるをえない話ばかりだった^^;。

2011年3月8日火曜日

脚本と脚色

テレ朝のドラマ『遺恨あり』を観た母が読みたいというので,近くの書店で原作,吉村昭『敵討』(新潮文庫)(のうちの原作は「最後の仇討」)を購入したところ「全然違う。やはりドラマは脚色しちょるねぇ」。

それはそうだろう。
原作の筋をただ再現するドラマなど,観ていて退屈だろう。
すでに知っている粗筋をただ確認するのは原作や主演のファンには楽しいかもしれないが,鑑賞ではない。
原作の枠を借りながらも,独自の視点を提供しない限り,原作と「独立の作品」とはいえない。
ずいぶん以前のことになるが,最近亡くなった和田勉(当時NHKディレクター)が
「ドラマの原作を選ぶ時には,読んでみて,出来るだけツマンナイ作品を探す」といっていたのも
この意味,独自の意匠を挿入できるスキのある作品の方がドラマの原作としてはちょうど良い,と理解した。

実際,ドラマ『遺恨あり』は,幼少時に両親を撲殺された主人公が,明治維新後,仇討ちが禁止されて以降も,執拗に仇敵を追究するプロセスが,一方で時代の変化に対応し主人公を宥める親族との関係,他方で撲殺場面に遭遇し後に資産家の妾になった後も仇討の資金援助を続ける元下女との関係の両面から描き出している。また上京時に門下生として抱えた山岡鉄舟の剣術に止まらない指導も主人公の仇敵活動を支えていた。

ところが,原作の方は,仇討ちを禁止する明治という時代を周囲の人々がどう受け入れたか(「あとがき」による)に力点が置かれ,ことの経過が淡々と記述されているにすぎない。

時代の変化を描く原作に対して個人レベルの人間ドラマではモチーフが全く異なる。
これを「脚色」というのは酷だ。

しかし,原作が「後書き」に記されているように当時の人々が明治維新という時代の変化を如何に受け容れていったかというモチーフが充分描かれているか,はまた別問題である。

例えば,原作では仇討を郷里,旧秋月藩の人々ばかりか,世間の人々も暖かく受け容れた(祖父は「ことのほか喜」んだ,「世上では,十二年の苦難の日々をへて仇を討った六郎を「孝子の鑑」として賞めたたえ」た)と記されているが,そもそも「仇討禁止令は法律関係者のみが承知しているだけと言ってよく,一般にはほとんど知られていなかった」というのだから当り前の反応で,「明治という新しい時代を迎えた日本人の複雑な心情を描」(「あとがき」)いたことにはならない。
ちなみにドラマでは主人公も仇討が禁止になったことは弁えており,親族始め周囲も主人公が仇討を取ろうとすることを諫めている。だからこそ,それを抑えて仇討を追究したのはなぜか,と視聴者の関心を惹く。

また原作では,一旦東京に出た主人公が,相手が裁判所の甲府支庁長として勤務していると聞きつけて,甲府に赴いたものの,1ヶ月経っても遭遇できず,東京転勤との噂を聞いて東京に引き返している。その経過自体は事実かも知れないが,支庁でも宿舎でも遭遇できないで主人公はどのような気持ちになったか,遭遇できない理由を考え別のルートを当たるとか更に探りを入れるとかしなかったのか,転勤の噂を吟味しなかったのか,情景描写が全くない。
この点もまたドラマでは,主人公は郷里でに遭遇したもののその勢いに圧倒された場面や,東京でも帰宅時に遭遇したものの,迎えに出た妻子を目の当たりにして逡巡した場面が描かれている。

時代の変化に押し流される周囲との軋轢に絶え,あるいは軋轢を避け,
仇敵になかなか遭遇できない中で計画の遂行に種々ためらいや不安を覚える。
そういう個人レベルでの描写がない限り
資料を読んでいる気分を覚えても,「新しい時代を迎えた日本人の複雑な心情」を鑑賞している気分にはならない。

これではドラマの方が「脚色」したのではなく「創作」した原作者ではないか,とさえ思える。

2011年3月7日月曜日

短い春休み

学期末,期末試験を採点し,成績を登録する。
次年度のシラバスを入力する。
公務員対策講座の講義の準備をし,論作文講座の答案を読み,コメントを記述する。
降旗節雄先生の遺稿ノートのうち割り当てられた1冊分をファイル入力する。

なんてことをしていたら,春休みは1ヶ月もない
今日は朝早く登校したが,ウダウダしていたら,帰る時間。
ジムに寄る前にドトール・コーヒーで少しノートを取ったが,
これではなかなか捗らない。

たまたま自宅で週刊誌を手に取っていたら,
ある経営者が日々大量に届くメールの処理方法として,朝昼夕30分ずつメールの時間を取り,
まず重要度に応じてフラグ等を立て分類し,
後は移動中になどに簡潔にして誠意のこもった返信をする,とあった。

メールが大量に舞い込むからこその工夫であろう。
当方は,営業メールばかりで,応答が求められるメールが少ないから四六時中メーラーを開いて
メールのチェックをし,
返信する必要のない一斉送信メールを削除するものと保存するものに分けることに時間を費やしているのであろう。

短い春休み,「しなくてよいことには一切手を付けない」という決断とその見極めが必要になる。

2011年3月6日日曜日

不得手と習い性

土曜の午前中は,管理組合理事会出席以外は,入力した降旗ノートの原本照合。
これまでは「深遠」「利子」「全元」「覚里」「冷事」としか読めない続け字を
前後の文脈から繰り返し読み直してそれぞれ「課題」「科学」「発展」「売買」「資本」と読み解いてきたが,
たとえ読み間違えていたことがわかっても,「こんなのわかるかぁ」と現著者のせいにできたが,
「つづける」を「続ける」などはかな漢字の変換ミス。
しかし,たった30ページの中で「つづける」と「続ける」,「すべて」と「全て」など表記に揺れがあるのではかなわない。

ともあれこのブロクはおろか原稿でも誤植が多いのに
手書きノートの入力など引き受けたのが間違いだった。

午後は,ファミレス,ドトールコーヒーと渡り歩いて4ヶ月前に読んだフェミニスト経済学の論文再チェック。
翌日はスタバックスを渡り歩いて以前読んだ別の論文について再検討。
昼休みは吉野家。
日曜日の昼飯「牛丼並盛り生卵」が習い性になってきた。

2011年3月4日金曜日

送別会なう



今日の予定は臨時教授会と送別会だけ。
酔うと仕事にならないので、午前中自宅でお仕事。
1日から始めた故降旗節雄先生の宇野弘蔵伝記ノートのファイル入力、後十数ベージなので、一気に仕上げることにした。
教授会の前後、最中(^^)を利用して30ページ完成。
後は校正のみ。
問題は判読不明文字○●×△▲
引用なら原典を当たれば良いが、地の文はそうはゆかない。いろいろ推測巡らせても無理(^O^)

今日も帳尻合わせ

朝一番,近くの皮膚科で診察を受けて登校するともう11時。
では,先にと,正門前の丸五蕎麦で昼飯は盛りソバ。

今日唯一の会議まで3時間,何やかやするうちにあっと時間が経って,
陪席しただけで下校。

仕方なくジムの近くのドトールコーヒー。
昨秋読んでいたフェミニズム経済学関係の論文を2,3日前から読替えし
当時記したノートも紐解いてみたが,
論点が錯綜してなかなか理解できない。
論点相互は当然関連しているはずだが,ずれているようにもみえる(失礼^^;

このモヤモヤ感は自分の関心と重なるところがあるからこそで,
したがってもう少し浸りたいところだが,
こういう時に限って明日は臨時教授会に送別会。
どちらも重要だから出席するが,頭は虚ろかも。

2011年3月2日水曜日

杵柄も朽ちて

確定申告の電子送信,e-Taxをはじめて4年目になる。

元々他校に非常勤に出ていた(収入が複数箇所からな)ので,確定申告は毎年逃れられない。
であれば,e-Taxの援助が一度きりだが出ることもあり,移行してみた。
(援助は住基カード親切手数料やICカードリーダー購入代金に見合う程度の5,000円)

しかし,早4回目とはいえ,1年ぶりなので戸惑うことが多い。
電子送信以前から,確定申告書をWEB上での作成は行なっていた。
控除額,税額などを自動的に計算してくれるので便利だ。
こちらは費目の戸惑いを覗けば,1年ぶりといってもさほど戸惑いはない。

問題はやはり電子送信の方で,
うろ覚えだが,毎年のように少しずつ手順が変わっているように思う。
今回は電子証明書の期限3年が切れていたので,
市役所で更新手続を取った。
しかし,それだけではうまくゆかない。
同時にWEB上では新たに新電子証明書を登録する必要があったのだが,
それについての説明はWEB上ではすぐには見つからない。
期限が3年という注意事項ばかりが目立ち,更新後の登録には気付かなかった。

更に,サポートセンターに何度問い合わせて指示通りにすすめても送信できず
戸惑っていたところ,古い利用者識別番号を使っていたということがわかった。

これは,新しい通知番号の通知をちゃんと保存せず,逆に古い通知を廃棄しておかなかった
こちらのミスだが,
それもこれも,整理整頓が不得手という,生来の悪弊のなせる業だ。

ために3日間延々と設定を少しずつ変え送信を試みていた。
全くの徒労であった。

ミスを繰り返さないために2010年度の申告書用書類(領収書党を3年保管する義務がある)を
収めた角封筒に「留意事項」を記すことは怠らなかった。

気になるのは,また1年経てば,その留意事項の意味を思い出せない,ということだ。

 3月1日 集中的に勉強するため自宅研修。進捗芳しくなく午後ドトールコーヒーへ.しかし,午前2時まで徳川元子『遠いうた』を読んでいたツケが出て度々々船を漕ぐ始末。ジムから帰宅後,故降旗先生が残された宇野評伝ノートのファイル入力に着手。
 3月2日 9時より学科の教育委員,運営委員が手分けして卒業予定者の学籍簿点検。すでにシステム上チェックされているものの再点検。午後大学院社会システム専攻会.学科会議。学科共通予算の残額の使途として自炊セット(両面スキャナー,裁断機)の希望を出していたところ,一部「本を愛しているので,裁断するなんて想像もつかない」という声も上がったものの,認められた。後は電子ブックリーダーさえあれば,,,,,^^;。