2019年11月17日日曜日

違和感

 更新が遅れた間も書きたいことはあった。

 それは,この間,夏の研究会や秋の全国学会で接した報告で特に関心を抱いたのはオルターナティブ論への違和感だ。

 一方で相変わらず国有化論。 他方で自給圏構想。

 正直どちらもピンとこない。

 彼らがそれらを唱える契機として世界的な格差拡大があるというのは理解できる。
 しかし,それを理論的にはどのようなレベルでとは別だ。

 目先の格差,貧困,そこから直ちに「労働力商品がその価値以下で売買されている」「労働力の再生産が不可能になった」と言えるのかどうか。
 賃金が労働力商品の価値以下とは収奪であって,搾取のように理論化は難しい。

 最低水準以下の賃金で苦しんでいる労働者がいるのは確かであり,彼らは一般に非正規雇用である。しかし,非正規雇用のなかでも最低生活水準以下の賃金しか得られない者が一般労働者とはいいがたい。
 例えば,働き方改革で問題となった長時間労働や同一労働同一賃金は決して貧困の問題ではない。
 過労死に至らなくてもワークライフバランスが取れない,家庭生活がないがしろになる,という問題であろう。
 あるいは,非正規雇用即生活できないという問題ではなく,同じような労働をこなしているのに,酬われないという問題であろう。

 ところが,最初に貧困と結論づけているために,多くの労働が直面する問題,長時間労働に駆り立てられ家庭生活が犠牲になるとか,職場で言われなく差別的扱いを受けているという問題が視野視野から落ちてしまうのではないか。
 懸念されるのは分析,研究の貧困であろう。 
 

4ヶ月

 更新が遅れた。
 前期科目の採点を終えてから論文を書いていた。
 正確に言うと,夏の研究会報告はスライド資料で準備を進めたので,文章西始めたのはその後,8月下旬からだ。

 といっても,9月になれば学務上の様々会議やその準備,10月になれば後期の授業開始と続き,思うように時間が取れなかった。
 
 しかし,執筆が長きに亘ると煮詰ってくる。
 10月下旬からは第3節のみを書いては打ち出し,読んでは朱を入れていた。

 昨年末に書き上げた論文は,単純繰り返し労働とは異なる裁量的な労働を念頭に,その複雑労働としての理論的位置付け,祖のっほうかに踏み込んで考察したものの,はるの研究合宿では,原理的な問題なのか,それとも段階論的な問題,さらに現状分析がハッキリしない,むしろ混同しているとの疑問,批判を受けた。
 そこで,その一歩手前の,多様な労働を分類枠組みに遡って考察を進めることにした。

 しかし,最近は完全に煮詰ったので,一旦筆を置くことにする。