2024年2月13日火曜日

先送りに終わった週末

  先週は平日の内は引き払う研究室の書類整理に追われた。
 最大の問題は書架の本の自宅配送と処分との分別なのだが,その前に書類の分別をしようとした。各種委員会の書類,論文のコピー,ノート類。しかし,後二者はタイトルを読むと,いろいろ思い出されて判断に迷ってしまった。内部労働市場について調べ出した時期の文献,ゼミの記録,さらに遡って大学院生時代のノート。それぞれ思い出がある。しかし,これらを一々保存していては自宅が倉庫になり自分の居場所がなくなる。割り切るしかない。
参考文献の内,当時の現状分析,調査に関しては今では古いので処分しても構わないだろう。また自作ノートは,そのエッセンスが頭に残って血肉になっていなければ,ノートとして不十分ということだから,再び原典に当たるしかない。つまり処分しても構わないだろう。問題は大学院以来のゼミの記録。自分では再現できないからだ。取り出せば,思い出が蘇るとは言え,この2.30年放っておいたということはその再現可能性は今後も低いのであろう。

 週末三連休は徐々に起床時間が遅くなった。
 4月からの脱勤め人生活が思いやられる。
 三連休では12月に仕上げた原稿と関連する文献を読み直した。
 原稿に関しては,方法論に傾斜した分,理解を得るには補足の必要があると思えた。
 しかしながら,参考文献を読み返すと,経済原論の理論的構成,方法についてさらに考究する必要性に気付かされた。
 中堅以下では,労働価値説に関して,価値と投下労働との関連を緩めて,物量体系における技術的関連性から価値と労働量との関係を説く傾向がある。
 個別の商品レベルでの価値と労働との関係に拘っていては「転形問題」の軛から抜けだけ内が,成果物と労働の量的技術的確定的関連性から労働量を規定すれば事足りるという理解からである。
 しかし,11月の学会報告及び12月の原稿でも指摘したように,

  • 生産過程に投下される労働すべてが量的技術的確定性を有するとは限らない(価値と労働との関連性を説く場合には,量的確定性のある労働を限定する必要がある)
  • 社会的再生産との関係が保障されておらず,流通主体の私的理解を体現した流通論における価値概念と,量的技術的確定性によって決まる生産論の価値概念は結び付かない(関連が不明)。
  • (付言すれば)価値と労働との関連付けが一方通行。資本の生産過程包摂による商品経済が社会的に全面化している以上,価値,資本による労働生産過程の規律という側面「相互媒介性における流通の先行性」(山口[1990]:9-14)もおさえる必要がある。
    つまり,価値と労働の規則性を考える際には,生産過程における量的技術的確定性が基盤にあることは間違いないにしても,その場合の労働は生産過程における労働すべてではないこと,量的技術的確定性の確率には資本の起立性が絡んでいることを抑えておく必要がある。

  なお検討を要する,が結論で,用は先送りとなった。

0 件のコメント:

コメントを投稿