レポート採点を含む生成評価が後1科目残っているが,ほぼ春休みに突入したので,これまでのことを振り返り,今後のことを考える材料にしたい。
「なぜ(今更)生産的労働概念に拘るのか」と聴かれることがある。
ここ10年近くそのことばかり発表してきたので「論文読んでくれ」と答えるのも億劫になるが,論文書き連ねても理解されていないとすれば,簡潔な回答を与える必要がある。
一言で言えば,
価値論を奉じる経済学では,価値形成労働だけでは多様な労働を理論的に把捉できないからである。
- 価値形成労働だけでは,商品を生みながら価値を形成しない労働も,商品を生まないから価値を形成しない労働が価値非形成労働として一括されてしまう。また,商品を生まない労働,家事・ケア労働,NPOの労働の中にある違い,相手に寄り添う労働とテキパキとこなされることが求められる労働が価値非形成労働として一括してしまう。
- 生産的労働を価値形成労働とを分け,定量的労働と成果との間で量的技術的確定性の高い労働と区別することにより上の職別が可能となる。
- 生産的労働とは普遍的な,言い換えると資本主義社会に限定されない生産過程という視角の下に設定される。同じく普遍的な概念,労働過程が人間労働の主体性を表現しているのに対して,労働過程を生産物視点で捉え返した生産過程では,主体性を強調する労働過程では人間労働の対象,純粋な客体と人間の「手の延長」として峻別されていた労働対象と労働手段が「生産手段」として一括されているように,主体的な人間労働も「生産的労働」として手段化したもとして捉えられる。これは言い換えると,自己目的性が強く,手段性の低い労働の存在を認めていることになる。不生産的労働である。資本の下の賃労働には自己目的性が強い不生産的労働は存立の余地が乏しいが,賃労働ではない労働,家事労働,ボランティア活動には相手との関係を重んじ,時間の許す限り寄り添いたいという労働,したがって定量性の乏しい不生産的労働が存在する。もちろん,家事労働もボランティア活動も,例えば被災者に一日100人分の食事提供など一定のサービスを達成するには,食材の運搬,整理,加工などにテキパキとこなす定量的労働,生産的労働が不可欠である。家族,被災者に時間の許す限り寄り添う定量性の乏しい不生産的労働ばかりでは所期の目的は達成できず,相手を失望させることになる。定量的生産的労働を土台に時間の許すかがり相手に寄り添遺体という自己目的的で定量性の乏しい不生産的労働も可能となる関係にある。
- 他方,普遍的な生産的労働の定量性と区別して,成果との量的技術的確定性の高い労働を設定するということは,商品の価値を商品一般の属性としての広義の価値と価格変動の重心を規定するという意味での狭義の価値とに区別した上で,狭義の価値を形成する労働を追加供給が容易な,資本の下の単純労働,無駄を認めない資本の効率性原則で量的に締め上げられた,締め上げることが可能な単純労働に限定したということである。これによって同じく商品を生産する労働であっても,小生産者のような非資本によって投下される労働や単純労働とは言えない労働,熟練労働が価値非形成労働として摘出されることになる。
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