2010年4月12日月曜日

お礼・その2

田舎から術後の定期検査のために出てきた母を迎えるために年休を取った。
ついでにディーラーにタイヤ交換を依頼しその待ち時間を利用してファミレスでこの度寄贈を受けた馬場宏二「経済成長論再考」(大東文化大『経済論集』94,2010)を読み返し,遠山弘徳『資本主義の多様性分析のために』の第1章を拝読した。

1,2度読んだだけでは,お二人の見解を理解したとはとても言えないが,批判的経済学であることの意味を考えさせられた。

馬場氏は,周知の過剰富裕化論の立場から経済成長を無批判に是とする志向を批判されている。
遠山氏は,新古典派の収斂論への対抗から,「制度的補完性」という枠組みで資本主義の多様性を分析し,様々に並立する資本主義諸体制の経済パフォーマンスを検証されている。

お二人の指向性は全く異なるが,前日の経済ないし経済思考・潮流を批判するという実績的意図が明確に感じられる。

しかし,お二人の著作を読んでいるうちに,批判的経済学がそもそもどういう意味で実践的たり得るか,疑問に感じた。
馬場氏の,過剰富裕化論や過剰商品化論に院生時代に接して大変な感銘と刺激を受けた。しかし,改めて拝読して,富裕化や商品化を「過剰」という見方や過剰の結果としての人類滅亡という指摘には俄に賛同しがたいものがある。人類滅亡という預言には,リカードゥの資本蓄積の自然肯定論やマルクスの利潤率の傾向的低下法則論のような宿命論ないし単直線的な推理に強烈な違和感を覚える。あるいは最近の自分の関心で言えば,生産における場合と異なり,消費に「過剰」を関することにも,これまた強烈な違和感を覚える。

他方,遠山氏の新古典派批判は頷けるとしても,そのために各国経済の,労使関係のパターンと経済パフォーマンスとの間に,一義的な関係があるかのような理解にはこれまた違和感を覚える。賃金交渉制度や貨幣レジームと経済パフォーマンスとの間に一義的関係があるということは,遠山氏らが批判する収斂論と同じ見方を感じるからである。

お二人の著作からは現実経済への強い関心,実践的意図を感じるものの,理論的考察から一義的な答えが出てくるものではないであろう。

では何のための批判的経済学か,あるいは端的にマルクス経済学か?
資本主義経済が問題なのは,人類を滅亡させるからではなく,人間の営みを一義的に(効率性原則で)規定することにある(滅亡しなくても存立に必要な以上にストレスがかかる),
効率的な経済システムは新古典派モデルだけではない,
あるいは「効率的」であるか否かは単純には計れない,
ということを明らかにするためではないだろうか?

 4月12日 昼前タイヤ交換のため家を出ようとすると,駐車場の車には薄く雨の層ができていた。ワイパーでは除こうとところ,結晶体だった。
 4月13日 今週から講義開始のためか,7時台の高速バスに学生多数乗車。助手席も満席で3便がバス停を素通り。6時半過ぎに自宅を出て9時前に大学に到着。「経済原論」初回ガイダンス。今週分の講義資料作成。Blackboardにアップロード。

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