主要各紙を購読していた宇野弘蔵は,日本の新聞の報道はどれも大差ないのになぜそんなに沢山の新聞を購読しているのかと尋ねられて「連載小説は違うじゃないか」と答えたという。
大差ない報道は,見解の分れる微妙だが大事なことに触れることを各社ためらっているからだと思われる。したがって,新聞報道をそのまま鵜呑みにするのではなく,裏の隠された意図を汲み取る裏読みが求められる。
しかし,ここで言う裏読みはその意味ではない。
最終面好き,ということだ。
日本経済新聞の最終面はいわゆる文化面だ。
左列は上に美術欄。下にコンサートなどの「文化往来」,
右列は上に「私の履歴書」,下に「交友抄」,
真ん中に「文化」欄が配置されている。
自分は美術の素養はほとんどなく,演劇やコンサートに行くことも稀なので,勢いもっぱら左半分に目を向ける(他意はない^^;)。
といっても,功成り名を遂げた者が来歴を長々と綴ったり,「虎の威を借りる」がごとく交友関係の披露は鼻につくだけで,毎日毎日付き合ってはいられない。
そこに行くとど真ん中に陣取っている「文化」欄は腰が低い。
最先端や流行の文化を扱っているわけではなく,小説家の近況や好事家のコレクト歴が淡々と綴られていて,心地よい。
最近のテーマを,手元にある日経を例に挙げると,「小唄好き政財芸界の粋人」(中田一男),「横浜の近代建築追い求め」(岡義男),「手作り列車どこまでも」(八津川栄造),「マンドリン共に歩み100年」(山口寛),「生涯の師ブルース・リー」(中村頼永),「絵巻息づくハワイ移民」(北條楽只)。
言っては失礼だが,いずれもB級で,こんなことにこだわる人もいるんだなぁ,と思うと何だが文化の厚みを感じる。フロンティアだけが文化ではない。既成文化の受容ばかりでなく,能動的に探求する姿勢こそ文化の厚みを表わしているのではないか。
しかし,ここで日経の裏面読みを勧めるのはそれだけではない。
現在連載中の「私の履歴書」に魅せられているからである。
有り体に言うと,映画監督との往時の不倫が赤裸々に語られている。
ある映画で一緒になると,絵コンテによる説明がユーモラスで惹かれ,映画館でデートをするようになった。出会って1年目に「私は深刻すぎて喜劇的な耳を疑うようなせりふを聞くことになる。『妻とうまくいっていなくて別居している。きちんとしたら君と結婚したい、春までには……』」
ところが「春の約束は、夏になり、秋を迎え、また春になり7年の月日がたつことになってしまった」。「それでも会えるときは幸せだった。ふたりだけの部屋で監督の描く絵コンテを見ながら映画の構想を聞くときは同じ夢を見て、笑うこともできた」。
しかし,そう長くは続かない。他方で,共演した萬屋錦之助からたちまちプロポーズされてしまう。監督にそれを伝えると君には歌舞伎役者の妻は務められないと止められる。やがて金之助の誠実さにひかれ,別れを決断し監督に告げる。「監督はカッとなって『どうしても別れたいなら、今まで君に注いできた愛情の責任を取れ。自分にも考えがある。明日の新聞を見ろ!』、そう言ってソバのガラスの花瓶を床に叩きつけとび出した」。心配になって一晩中探し回った果てに親友からようやく消息を得る。『プリンスホテルのプール、元気に泳いでいたわよ。私に昨日ちょっとやり過ぎてねぇと照れて言ったけど』」。
まさか日本経済新聞でこんな直截な表現を目にするとは思わなかった。
大抵早朝のバス停か高速バスの中で日経を眺めているが,一遍に目が醒めた。
報われなかった不倫関係が詳細に述べられているが,ちっとも暗くない。
「私の履歴書」は日経記者がリライトしているらしいが,じめじめした暗さが出ないのはひとえに本人の性格故であろう。
小説を連載中に読むことをしない自分の場合,教員談話室で何紙も読むのかと問われれば,きっと「文化面は各紙全然違うじゃないか」と答えたに違いない。
4月15日 用事を済ませて登校。講義準備等で終わる。帰りに久しぶりにジム。
4月16日 「経済原論」
は経済と経済学,紀要編集委員会。教養セミナー「格差を考える」ガイダンス。「経済原論演習」
は研究生の周さんとマン・ツー・ウーマンで奥村宏『法人資本主義の構造』第1章。肝心なところで日本語表現が熟れておらず,筆談。
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