2024年11月23日土曜日

 更新途絶えた1ヵ月を箇条書き風に振り返ると,

  1. 今回コメントの少なかった論文徳ライトは後回しにして次の論文の構想に耽っていた。
    • その内容は,混線している価値と価格の位相の整理
    • 経済理論学会の問題別分科会「資本主義社会の基礎理論」では個々数年価値論が取り上げられているように,価値論,労働価値説の意義再検討の気運が高まっている。
    • その中で,宇野派では価値と労働の関係づけの稀釈化,労働,生産に関説せずに商品の価値規定自体から価値ないし価格水準の安定性を導出する動きが出ている。
    • その意図は,主流派経済学との対峙を念頭に従来の労働価値説理解に拘泥せずに価値論を見直すことにあるが,価値と労働の関係づけの稀釈化は,見方を変えると価値概念の肥大化であるから,価値概念を有さない主流派経済学との対峙,対話をかえって困難にしている。
    • 労働との関係に触れない価値論は,労働ないし社会的生産とは無関係に,価値概念それ自体から直裁に価格現象を説明しようという試みであり,価値と価格を同一平面で論じることになる。
    • 翻ってみると価値と価格の「次元の相違」を唱えてきた宇野理論の中に価値と価格の混線が見受けられる。
    • こうした混線を整理し,価値論の肥大化を抑えない限り主流派経済学との対置は困難であろう。
  2. 論文のリライトについては
    • 理解して貰えないのは,問題意識の違いが大きく寄与していると思われる。
    • したがって,単に表現を丁寧にする,という表面的修正では済まない。
    • 最終章の3つの論点それぞれについてこちらでは当然と思っていた理論背景,例えば,経済原論体系における流通論と生産論の関係,特別剰余価値概念と超過利潤概念との展開場面の違い,理論的役割の違いにまで遡って解説する必要がある。
    • 論点をその問題構制も加えて解説することになると,全面的な書き換えが必要になり,場合によっては従来論じていた細部の割愛も必要になる。
 というわけで,余裕こいていたつもりが,時間的に切羽詰まってきた。

2024年10月24日木曜日

不確定性の取り扱い

  話が長くなるので,この間考えていたことを簡単に列挙すると,
 8月末八王子合宿,SGCIME夏季研究合宿での,ある報告論文を読み直し,

  • 価値形成労働の基準
  • 流通費用の生産価格への計上の可否
・それらにともに係わる「流通過程の不確定性」の取り扱い

 今現在の疑問は,

  • 同じ論者,例えば故山口重克でも不確定性の取り扱いは異なるのではないか。
  • 「流通過程の不確定性」を根拠とした流通費用の費用価格への計上可否は価格論,現象面,すくなくとも上向法の終わりに近い場面での議論になる。
  • 費用としての不確定性を根拠とする価値形成労働は価値論での議論

 (今のところここまで)


 

2024年10月10日木曜日

晴耕雨読とはゆかない

 pすと勤め人生活で迎えるに当たってまず第一に心に浮かんだことは「毎日が日曜日では困る」ということだ。

 自宅は居心地は良いが,良すぎて気分が弛緩する。
  また同じことだが,オンとオフの使い分けが難しい。
 そこで以前は土日も近所のカフェに「出張」していた。
 しかし春先そのカフェが撤退してしまった。
 そこで4月から平日は朝から自転車を漕いで街中のカフェまで「遠征」することになった.
 2,3箇所使い分けているが,スッカリお馴染みになった。
 しかし,雨の日は自転車が使えない。
 勤め人ではない,通勤費も出ないのに,バスで行く程かとも思ってしまう。
 問題は雨の日が続いたときで,,毎日毎日同じような生活を来ることになると,自然とボルテージが下がる。

 晴耕雨読は必ずしも好ましいものではない。

2024年10月7日月曜日

偲ぶ会参加

  10月4日(金) ホテルJALシティ仙台で開かれた「大内秀明さんを偲ぶ会」に参加。
 大内秀明さんとは1月に亡くなられた大内秀明東北大名誉教授のこと。
 13時開始だったが,昼前のコマで担当する経済原論2が初回ガイダンスのため早めに終わり,駆けつけることが出来た。

 大内先生は教養部に属されていたが,大学院でも指導されていたため,6,70年第,あるいは80年代「政治の季節」に東北大学の教養部や大学院で学んだ当時の学生,あるいは市民運動の中で大内先生と係わった方計60数名が参加していた。

 当方は東北大学で学んだわけではないし,面識を得たのは先生の最晩年だったので,参加していた研究仲間に当時の先生の様子を尋ねて廻った。先生の社会運動との係わり,東北大学時代の研究関心,当初から共同体(社会主義)への関心はあったのか等々。
 さまざまな方とおしゃべりの中でのことなので回答を一々挙げないが,東北大学時代は当時の社会問題,社会関心に基づいて研究テーマを設定されていたような印象を受けた。
 同じく社会問題に発言されていても,一貫して「市場と共同体」という関心で研究に臨まれていた故降旗節雄先生(北大,筑波大,帝京大)とはまた別のスタンをお持ちであるように思えた。
 改めてご冥福をお祈りしたい。




2024年9月23日月曜日

表の改訂

 世代間ギャップで当たり前のことも通じない,など前便では愚痴めいたことを瑠瑠述べたが,そんなことを言っても始まらないので,現在の価値論状況をどう捉えているか報告時に遡って整理しよう。以下の表は9/5時点での見取り図を9/14報告資料を基に書き換えたものである。
    小幡理論
「流通生産二元論」
数理マルクス経済学
「価値価格二元論」
生産論(搾取) 価格 ①③物量体系(社会的再生産視角)
「マルクスの基本定理」(剰余労働の必要性)
価値 社会的再生産視角に止まる→剰余労働の指摘に止める=不変/可変資本,剰余価値概念放棄,表式論も〔②投下労働価値説棄却〕(宇仁他[10]小幡[16]さくら[19])
資本循環視角→不変/可変資本概念による剰余価値論〔②投下労働価値説維持〕(置塩[88]八木[06]小幡原論)
流通論(資本) ④価値内在説 同じ商品「同じ価値」
→売り急がず価値安定
 A.「何でも買える」貨幣は同種大量商品を前提
 B. ③客観価値説≒生産価格に裏打ちされているから。
←売り手にとって「同じ価値額」(内在/事前主観)と生産価格(外在/事後客観)のすり替え
←価値(流通論)と労働(生産論)の分断(関係不明)
価値=労働(社会的再生産視角)に止まる
→「増加」ではなく「自己増殖」する 資本概念に到達しない
①から④とは,小幡[2016]「マルクス経済学を組み立てる」で取り上げられた4つの主要命題を指す。
 この表では,小幡理論に対して「価値価格二元論」であると同時に「流通生産二元論」と指摘していることになる。
 価値を商品論の問題に限定しているから,生産論の価値増殖には触れなくなったという関係にある。
 しかし,そうなると価値増殖ないし剰余生産物形成と資本の運動との関係は明らかではなくなる。
 資本は単なる資金,資産,設備ではなく,「価値増殖の運動体」とは価値論を報じる理論では一致する規定である。
 だとすれば,(1)〔「価値価格二元論」に対して〕剰余労働の存在を指摘するだけでなく,資本の運動,価値の姿態変換に即した価値増殖を説く必要があるが,生産論を社会的再生産視角に限定する限り,(資本の循環運動を説けないので)それができないでいる。
 (2)〔「流通生産二元論」に対して〕資本主義社会の歴史的理解としても,商品経済の領域が単に社会的に拡大したと言うだけでなく,労働力商品を起点に,言い換えると資本・賃労働関係を中心に社会的再生産が編成されていることを示す必要があるが,それは剰余労働の指摘では済まず,剰余生産物が資本の運動,価値の姿態変換に即して剰余価値の形成として説かれる必要がある。
 価値論=流通論,(剰余)労働論=生産論という分離では意味をなさないわけである。

平熱回復するも

  先週末,学会問題別分科会での報告を終えた。
 当日朝から咳が止まず,宿舎に戻って体温を測ると極めて高熱。2日目は欠席し翌日地元急患センターで治療を受け,以後静養に努めてきたが,2,3日で平熱に戻った。今週から平常復帰の予定。

 問題別分科会は3名の報告者が関連する報告を行い,相互にコメントし合うという体裁をとったが,議論が噛み合ったわけではなかった。特に自分の報告は趣旨が理解されたようには思えなかった。

 しかし,9月1日報告本文を投稿してから当日まで構成を練る過程で,また当日の質疑の中で大きな気付きが2,3あった。

  • 数理マルクス経済学の影響で,搾取論が社会的再生産視角からの説明,例えば「マルクスの基本定理」(剰余労働の必然性)で済まされ,資本循環に即した,資本の価値増殖の説明が省略される傾向が目立っている(これを前稿では,また報告でも「価値・価格二元論」と指摘した)
  • これと相即するように,宇野理論,特に小幡理論では,価値論の展開が流通論で済まされる傾向が強くなった。流通論,特に冒頭商品論で価値水準の安定性が説かれる傾向が顕著になった(これを報告では「流通生産二元論」と指摘)。
  • 価値水準形成の説明が流通論,冒頭商品論で完結する傾向と生産論における資本の価値増殖論の形骸化という傾向が合わせ鏡のように呼応して進んでいた。

 問題はある世代以降,この傾向が当然のことのように受け止められ,その特異性が理解されていないことである。
 宇野が価値実体抽出の場を資本の生産過程論に求めたのは価値の価格からの乖離とその修正が資本の生産過程を背景において始めて可能という理解があった。
 この点からすれば,価値水準の形成は資本による生産過程の包摂,資本による価値生産物(労働力商品の価値+剰余価値)の形成の説明を通してしか解明出来ないはずである。
 言い換えると,先の2つの傾向は,学問の発展を無視し,むしろ逆行していることになる。
 しかし,ある世代にはそのことを改めて説明しないと伝わられなくなっている。

 一言で言えば,世代間ギャップであるが,学問の発展は先行研究との関係で始めて明らかになるのであるから,それを無視して論じられることは釈然としない。

2024年9月5日木曜日

一旦終了

  8月31日,9月1日と〆切が続居たため,後者,学会報告本文の仕上げは突貫工事になってしまった。前者〆切まで1週間,後者は棚上げ状態となり,前者が終わってから後者の仕上げには1日しか残っていなかったからだ。

 もちろん大筋のドラフトはあったものの、取り上げる論者の主張をすために原典に当たって正確に引用する必要があり,一つ一つに時間を取ってしまった。

 大筋は前回,S氏への返信で示したとおりだ。

 二年前の学会報告でも小幡氏の剰余価値論の余剰論への組み替えを検討し,昨年の学会報告も余剰論における特別剰余価値概念の超過利潤概念への統合を検討していたたので,いわばその続きであった。

 今まで小幡余剰論を検討してきたので,今回コーディネータの吉村氏に報告参加を誘われた際も喜楽に分会報告を引き受けてしまった,
 分科会は2,3の報告を関心を集めやすいように同一テーマで括る、いわばパッケージで提供するものだが,報告相互は甘利関係ないことが多い。
 しかし,今回の問題別分科会「資本主義社会の基礎理論」では3名の報告者が相互にコメントし合うというスタイルをとる。

 今回は小幡道昭氏(東大名誉教授)が自ら最新の小幡道昭理論を報告され,置塩理論を代表して関根順一氏(九州産業大学)がこれまでの価値論争のまとめを報告される。
 関根氏も参加されるので,単に小幡理論の検討では済まない。
 そこで,考えたのが前回紹介したように,小幡理論と数理系マルクス経済学は共通面もあるし,異なる面もあるということだ。
 この点を説明すると話が長くなるので,学会当日のスライドで用いる予定の見取り図で示すと以下のようになる。

    小幡理論 数理系
生産論(搾取) 価格 ①③物量体系(社会的再生産視角)
「マルクスの基本定理」(剰余労働の必要性)
価値 社会的再生産視角に止まる→剰余労働の指摘に止める=不変/可変資本,剰余価値概念放棄,表式論も〔②投下労働価値説棄却〕(宇仁他[10]小幡[16]さくら[19])
資本循環視角→不変/可変資本概念による剰余価値論〔②投下労働価値説維持〕(置塩[88]八木[06]小幡原論)
流通論(資本) ④価値内在説 同じ商品「同じ価値」→売り急がず価値安定
 A.貨幣「何でも買える」機能は同種大量商品を前提とするから
 ←一物一価を超えた同一価値額の根拠不明 
 B. ③客観価値説(生産論)に裏打ちされているから。
 ←生産論から価値論を排除した意味不明
価値=労働(社会的再生産視角)に止まる
→「増加」ではなく「自己増殖」する 資本概念に到達しない
 価値「増加」ではなく「自己増殖」とは,労働力商品に投下された資本,可変資本の「可変」たる所以は単に資本価値が増加したではなく,新たに生み出されたという意味だ(労働力商品は売り出す本人の下でのみ価値を有し,売られた段階で一旦価値を失うため,労働力商品の価値部分も含め新たに生み出す必要がある)。
 問題は,ドラフト状態から丸1日で仕上げたため,価値論の積極的意義の提示が手薄,有り体に言えば「尻すぼみ:」になってしまったことである。
 この点は8月24日開催の仙台経済学研究会でも指摘されたことでもあり,報告までの10日間でさらに詰める必要がある。

2024年8月23日金曜日

S氏への手紙

 学会報告原稿の構成が定まらないまま,〆切まで1ヵ月,半月,10日と経っていった。そんな折,一緒に分科会報告を行うS氏より報告原稿を提出した,とコピーが届いたので,お礼を述べる形で報告の見通しを語ることになった。

2024年7月29日月曜日

価値内在論の制約・その1

  前便は,更新が間延びした理由,言い訳を述べようとして,採点手間取った試験の話ばかり

になった。

しかし,更新が伸びたのは何も学務の幼児ばかりではない。
9月半ばの学会報告の構制について見直し,迷いが生じていたのが大きな要因だ。

学会の問題別分科会,3名の報告の1一人として招かれたのは,労働価値説を社会的再生産の見地から物量体系に即して説いている小幡理論や置塩理論とは対照的に、未だに投下労働価値説にこだわっている変わった論者としてであろう。
こちらもそんな偏狭者、ドンキーホンテ扱いを承知のうえで引き受けている。
その上で、報告エントリー時の趣旨書に記し、ここでも紹介したように、物量体系に即した搾取論だけでは、1)資本としての価値増殖,価値の姿態変換を示したことにはならず、資本による生産過程包摂の分析に名手いないこと、2)労働の客観性を所与しているために、 多様な労働の分析に必要な労働の主査性を明らかにできないという問題点を指摘しようとしている。

しかし、そののことは小幡理論が置塩理論と同じという意味ではない。
もちろん様々な点で違いがあるのは当然であるが、こと価値論として違いをどのように説くか、でしばらく論文を読み返し、ノートを作り直すという作業に追われていたのである。

その点について、完全に構成が固まったわけでもなく、ここで長々と記すことははばかれるが、簡単に示すと、
小幡先生が「マルクスを組み立てる」という2016年の論文で示された4つの論点のうち、譲与価値論に変わる余剰論、投下労働価値説に変わる客観的労働蘆雪について、それ以外の2点、すなわち貨幣の実在する市場論(価値内在論)と産業予備軍の常駐する労働市場論が大きく影響を与えているのではないか、ということである。
とりわけ小幡先生の独創とも言える価値内在論は,生産を自然過程の一部と捉える独自の見解とも相俟って,他の数理系価値論以上に,労働量決定の客観性を強調するものになっている。 (この項続く)


 

記述式

  またまた更新が延びた。

 第3回まとめシートの出題形式にういて選択式の予定を短い記述式に換え、その採点に手間取っていた。

 担当する各科目は評価を1回の期末テストで行うのではなく、初回ガイダンス以外計14回行う確認問題と、単元ごとのまとめシート3回の得点合計元に行っている。
 毎回の確認問題は,正しいもの、不適切なものを1つ選べという選択式2問、時に空欄補充だが、まとめシートは第1回のみ空欄補充で、第2回が論述式あるいは短く答える記述式、第3回は空欄補充ないし記述式としている。
 選択式である確認問題が正答率が高いのと同様、空欄補充問題も設題について教員が作成した答案、文章に適切な用語を埋めてゆけばよいのでので正答率が高い。空欄が10個あれば、9割弱の学生は誤答が2個いないに収まる。
 しかし、論述式はそうはゆかない。
 問いに対し、結論を示すだけではなく、その結論を導くために、予め何と何を論じなければならないか,自ら構成を考えなければならない。構成が思いつく学生の答案と結論のみの答案では得点に大きな差が出る。さらに,残念ながら,設問の意味を読み誤った答案も見受けられる。毎回の確認問題と同様、未提出者と区別するために最低1,2点は出しているが、それっきりである。

 今期も、すでに第2回まとめシートで論述式ないし記入式の問題を出して丁寧に採点しているので、第3回は簡便な方式で済ますつもりでいた。
 しかし、まとめシート2で得点にあまりに得点に差があるように思えたので、第3回も短い記述式だが、学生自ら説明してもらう形式にした。そのため時間が割かれた。

 結果としては第2回と大差はないようにも思えるが、ユニバーサルか、大衆化したといっても大学の専門科目である以うな、試みを繰り返す必要があるのではないだろうか。









 

2024年7月11日木曜日

一言で言えば

  まとめシート2,中間試験のようなもの,の採点が2科目続き,10日間くらい,他に何も出来なかった。詳細は省くが,過去問の解答やネット情報を鵜呑みにした安易なコピーが目立った。どちらも2年次開講科目であり,学生が専門科目の試験に慣れていないせいかもしれない。

 

2024年6月26日水曜日

分科会報告本決まり

  お誘い頂いていた秋の全国大会分科会報告は未だ決まらないのかなぁ,と不安に思って,学会HP>大会HPと辿ってゆくと,名前が載っていた。既に5月末には直接の申込者に連絡があったようだ。(その経緯は省略)

 報告「剰余価値論は不要か」の趣旨はエントリー時に示した。

 物量体系から余剰発生を示し搾取の存在証明とする理論は,

  1. 余剰の源泉を労働に求める剰余価値実体論に止まり,如何に形成されるかという剰余価値形態論を欠く,
  2. 労働の客観性を所与としているため,
    a.自己目的的な面もある家庭内の労働を賃労働と同質の定量的生産的労働に限定している,
    b.定量的労働を量的確定性の高い価値形成労働に限定し,
    併せて多様な労働の理論的な把捉を困難にしている。

 2はかねて主張してきたことであり,今後9月1日の締切までに1及び1と2の関連について詰めてゆくつもり。

 といっても報告本文の執筆はずっと後で差し当たりは論点構成を練ることに努める。
 1の論点を思いつくままに並べると,

  1. 【歴史性】搾取を表現する際の単位となる財,ニューメレールは労働でなくてもよいとする労働価値説批判に対して,労働の普遍的特性を主張するだけで良いか。商品経済に限定されない普遍的な属性がなぜ商品価値に繋がるのか不明だからだ。
  2. また搾取の成立を説くだけでは不十分だ。資本主義社会では搾取が非権力的に,契約自由の原則に基づく労働力商品の売買の結果として発生しているからだ。したがって,市場のルールに従って剰余価値が発生していることを示す剰余価値形態論が不可欠となる。
  3. 【価値特性】労働力商品は,資本主義固有という意味での歴史的特殊性ばかりでなく,資本が価値の姿態変換を続けるなかで,本人の手にあるときのみ価値を有するという労働力商品の価値特性は重要。
  4. 【多様性,多層性】社会的再生産,あるいは人間と自然との物質代謝過程である労働過程を出発点とすると,労働はすべて同質的に映るが,目的物をハッキリさせ,ある物の生産過程として捉え返すと,定量性のある労働とない労働,量的技術的確定性の高い労働とそうではない労働の区別が明確になるのではないか?
  5. 【商品所有者性】労働力商品概念は,価値増殖という面ばかりではなく,賃金労働者の行動に「より高く売りたい」という商品所有者性を認める点でも重要ではないか。特に労働者構成において,同じラインについて集団的に労働するブルーカラー労働者よりも個々人に一定の裁量性があるホワイトカラー労働者の比率が増大しているこんにちでは重要ではないか。 


 

2024年6月20日木曜日

三つ子の魂,百までも

  論文のリライトをさらに続けることになった。

 「新統合論」とは,経済原論第3篇,競争論ないし機構論における超過利潤概念を,従来,生産論で展開されたいた特別剰余価値概念のように説いている。
 同一部門内で複数の生産条件が並存していても,優等な,新生産条件が普及すれば超過利潤は消滅する,と。

 その弊害として,生産論の流通論との不接合(端的には可変資本概念の空洞化),資本における生産力志向の展開不全,平板な競争像の3点を挙げた。

 すると,宇野弘蔵も新技術が普及すれば超過利潤は消滅すると説いているというコメントがあった。
 しかし,新技術普及による超過利潤消滅は,超過利潤消滅の一特殊ケースに他ならない。
 超過利潤の消滅=優等な生産条件(で生産された,他よりも低い個別的価値)が市場価値を規定するのは優良な生産条件だけで商品の社会的需要を満たせるからで,それだけ需要が収縮し,中等ないし劣等な生産条件を用いた資本はマイナスの超過利潤となる(平均利潤が得られない)ために生産を控えるケースであろう。〔需要が回復すれば,優等な生産条件だけでは需要を満たしきれなくなり,中等ないし劣等な生産条件が市場価値を規定し,それ以上の生産条件を要した資本には超過利潤が復活する。〕
 これに対し,新技術普及による超過利潤消滅はその特殊ケースである。というのも,新技術普及には時間が掛かる,また常に新たな技術が生み出され,元の新技術も中等以下の技術になり常に超過利潤が発生するからであり。
 超過利潤消滅を,その一特殊ケースである新技術普及でしか説かないのも「新統合論」たる所以である。

 超過利潤を特別剰余価値的に説くから,機構論における市場価値論は新旧2つの生産条件か設定されず,しかも新技術が普及し旧方法が淘汰される方向でしか生産条件の並存が説かれない,諸資本の競争が説かれない。
 新統合論の弊害の3番目に挙げた平板な競争像とはこのことである。
 その一例として,市場価値論に続く地代論では絶対地代が土地の生産性の差異からではなく,土地所有者間の「結託」という非市場的要因から説かれていること(土地の生産性較差を踏まえた資本の競争が捨象されていること)を挙げた。
 すなわち,差額地代が動力源としての落流の蒸気機関との生産性較差からのみ説かれている,言い換えると土地の生産性較差による差額地代が説かれず,優等な土地への第2次投資によって劣等地への差額地代第Ⅱ形態発生も含む利用されるすべてお土地への地代発生が説かれなくなり,土地所有それ自体に基づく地代,絶対地代が差額地代第Ⅱ形態を経由せず,土地所有者間の「結託」という非市場的要因から導出するしかなくなっている。

 すると,差額地代第Ⅱ形態は説かれているとのコメントを受けた。
 確かに説かれているが,絶対地代を説いた後である。むしろ何のために説いているのか不明な状態になっている。〔お弟子さんの原論では削除〕
 そこでは,土地の生産性較差を設定した上で,第2次投資の生産量も示している。そして「社会的需要が(1) 以上になると, B1が耕作に引き込まれ,最劣等条件となる」などと,社会的需要の動向により市場価値を規定する生産条件が遷移することが説かれいる。
 社会的動向による規定的生産条件の遷移を認めるならば,なぜ複数制三条件並存の一般論である市場価値論でそれを設定しなかったのだろうか?〔地代論は生産受験が制約された自然条件である点でその特殊例〕

 結局,余剰論は剰余価値を階級単位で説いているために,資本を絶対的剰余価値の生産から相対的剰余価値の生産へと誘う特別剰余価値概念が生産論から放逐され,機構論の超過利潤概念と統合されたために,市場価値論は新旧2つの生産条件が並存していても新技術の普及過程という一方向の競争でしか捉えられず,地代論でも絶対地代の導出の際には差額地代第Ⅱ形態,言い換えると土地の生産性較差が設定されてなかったのであろう。しかしながら,社会的需要の動向と無関係に資本蓄積が決定されないのでは「市場」価値論にならないから,絶対地代導出後に申し訳程度に土地の生産性較差が説かれたのであろう。

 そして研究者もこのような論調で講義を受ければ,教科書で教えられれば,社会的動向により市場価値を規定する生産条件が変異する,超過利潤消滅は一時的ケースという説明が筆者独自の「独特な見解」としか映らないのであろう。 

 まさに「三つ子の魂,百までも」である。


2024年6月10日月曜日

学外講師への返信

 こんばんは。。。です。


 こんばんは。安田@前山形大です。
 先日は講義の報告を頂き有り難うございました。
 先月末〆切の原稿を抱えていましたので,返信がすっかり遅れてしまいました。

 今年度の「地域社会論」については4月半ば廊下ですれ違ったKさんより例年並みの履修者を集め無事スタートしたとの連絡を受けていました。
 彼は某大学で経験のある地域関連授業のプロパーですので,授業運営はつつがなく行われるものと思っています。

 むしろ自分の講義を振り返ると,最終回のまとめでもっと踏み込んだ提案ができていればという反省があります。
 特に昨今のように,地方から人口流出は女性の方が顕著である状況では,山形の素晴らしさをアピールするだけでなく,地域社会における,暮らしのあり方,大仰に言えば,「男性片働きモデル」について考える機会を設けても良かったのかな,と思っています。
 というのも女性の都市流出には,地方の方が男女役割分担意識が根強く,管理職登用の道が狭く,家計補助的労働が多いことが背景にあるように思っているからです
 また,社会科学としては,人口政策,外国人労働者の処遇など国の政策も射程に入れるべきだったと反省しています。

 もちろん現場レベルでのニーズの発見が起点であることには変わりありません。
 今後とも「地域社会論」へのご協力をお願いいたします。

 2024年6月9日(日)

二分法への疑問

  最近喧伝されている,流通の不確定性と生産の確定性という対置,二分法に強い違和感を覚える。

 生産に関わる労働はすべて客観的で確定的であろうか。

 例えば,山口原論で出て来る「無体の生産手段」のうち,生産過程間の調整を司る「調整効果」や,直接生産には関わらない技能教育や照明(の調整)など「労働補助効果」は所定の生産物量から一義的にその量が決まるわけではない。生産的労働ではあっても不確定的と言える
 さらに生産でも流通でもない家庭内の労働やNPOの労働はどのように位置付けられるのであろうか。
 賃金をもらっていないだけで生産的労働と同じだろうか。
 確かにそれらの中には賃金をもらっていないだけで生産ないし流通における労働と同じ定量的な生産的労働も存在する。特に組織内で行なわれる場合,労働相互の連関の必要上,定められた時間内に定められた生産物量を算出することが求められる。
 しかし,家事労働ないしNPOの労働すべてが定量的な労働ではない。
 相手の要求に寄り添うように半ば無制限に時間を掛ける労働もある。

 これらは労働ではないのであろうか。

 確定的生産と不確定的流通の二分論では済まないように見える。

余談ですけど

  6月8日,立教大学で開かれた経済理論学会関東部会に参加した。
 書評風の第Ⅰ報告で取り上げられた著書の寄贈を受けていたこともあるが,秋の全国学会問題別分科会報告とも関連すると思われたからだ。(分科会報告はエントリーしただけでまだ決まっていないが,適わなかったら論文にするだけだ)

 実際の報告や質疑の中心が関心のある論点とは違っていったため,発言せずじまいだったが,分科会報告を準備する上で考えさせられることがあった。

 それは「流通過程の不確定性」に対置して生産過程(に投入される労働)を「確定的」とみなしていることへの疑問だ。
 前回述べた3つの論点の内の「1.流通論と生産論との不接合」にも係わる。

 不確定性と確定性で流通過程と生産過程が峻別されるばかりでなく,労働時間が技術的に確定的な投入産出関係に規定されていることから,流通論=価値論,生産論=労働時間論と切断されると,資本による社会的な生産過程包摂を説くことが出来るのか疑問を覚える。

 実際,さくら原論では,「資本の生産過程」「資本の価値増殖過程」という視角がなく,生産論から不変資本,可変資本,剰余価値(率)等の概念が駆逐されている。

 しかし,生産論を労働時間の問題に限定してしまうと。「資本の下の労働過程」を分析しても資本の価値増殖には結び付けられないため,労務管理的な話に止まり,経済原論にとっては「余談ですけど」になってしまうのではないか。

2024年6月9日日曜日

3つの論点

 この間授業の準備,後処理だけをしていたような気がする。
 というのも,3月半ばから先月締めきりの論文リライトに向けて走り続けた感があるので,すぐには次のことに取りかかれなかったのだ。

 論文では,機構論ににおける市場価値論の超過利潤規定を従来は生産論で説かれていた特別剰余価値規定のように説く見解(「新統合論」と呼んでいる)の影響,問題店を3点挙げた。

 一々説明すると長くなるので,見出し風に列挙すると,

  1. 流通論と生産論の不接合,断絶
  2. 資本の生産力志向の埋没
  3. 平板な競争像

 お誘いいただいた秋の全国大会,問題別分科会「資本主義社会の基礎理論」が決まれば,これらをさらに掘り下げることになるだろう。

2024年5月26日日曜日

学生の質問(労働と生産)

 種々の理由で更新が遅れている。
 話題を変えてみる。


 4月24日の経済原論1は「労働と生産」。
  資本主義的と限定する以前の,人間社会に普遍的な労働過程,生産過程を解説。
  労働過程論で人間労働の主体性を説き,生産過程論で目的である生産物視点で過程の連鎖が規律され,定量性,効率性が生じると解説。
  後者はテキストの解説とという独自の考えので難しかっただろう。
  毎回確認問題の解答と質問,感想をオンライン入力させているが,学生の感想は必ずしも講義内容を踏まえたものではない 。

1)現在の日本は、賃金は上昇しないのにも関わらず、物価は高騰しているため国民の生活を圧迫してる。国民の経済活動を活発にし経済発展させるためには、賃金を上げることがとても重要だと思った。

--講義中は質問されていないことまで話しすぎました。
 労働は主体的な人間固有の行為ですから,賃金上昇しても物価上昇を下回る扱いは異常です。
 名目賃金の上昇率から物価の上昇率を割り引いた「実質賃金」は,年度で言えば23年度は前年度比2年連続マイナス(厚労省5/23発表),月別では3月まで24か月連続マイナス(同5/9発表)。小売業が増益のように原材料費の価格転嫁は進んでいるのですが,賃金上昇が追いついていません。
 授業で言ったのは,利潤が上がっても内部留保だけ積み増し賃金上げしない状況が続いたので,賃金上昇のみ遅れているように見えますが,賃金+剰余価値の合計であるGDPの伸び,経済成長率が低い状態が続いているのが日本経済の問題です。さらにその底に日本=人口減少=国内市場縮小という意識の存在です。利益があがっても海外への再投資に傾斜いるようです。
 (補足)内部留保が国内より海外投資に向かって,日本経済の成長率が低いなかでは進む憎い。経済成長は環境に負荷を掛ける面があるが,低成長のままでは分配,分配を通した生活の向上に限界がある。もちろん環境に配慮して生活の質を見直す必要はあるが,人々の「豊かな」生活への要求を無下に否定できない。

2)職人が生産に必要な技術を習得するまでの時間は抽象的人間労働に含まれるのでしょうか?

ーー技術習得が労働時間内であれば,労働には必ず2側面あるので,抽象的人間労働の面と具体的有用労働の面があります。 
 1日ないし1か月の労働時間の一部を割いて職業訓練を受けている面では,他の工場労働,オフィスワークと同様の抽象的人間労働です。しかし,その内容が実地訓練だったり,ソフト上のシミュレーションだったり,あるいは普段の仕事に就きながら先輩から指導を受けたり(OJT),本社あるいは箱根保養所の会議室に集められての研修(offJT)だったりと具体的有用労働の面ではさまざまです。
 勤務中ではなく,みなさんのように学校での勉強,訓練は労働ではないので,抽象的人間労働でも具体的有用労働でもありません。
 現実に訓練で問題になるのは,教育と称した休日出勤であったり,修業中と称して最低賃金を下回る報酬しか得られなかったりすることです。

2024年5月4日土曜日

分科会報告の申込

  報告を誘って下さった方には昨5月3日までにも牛込みをする約束だったので,夕方一挙に仕上げた。この間,別のことに専念し,しかも余り進捗せず,報告申込原案とほとんど変らなかった。3つ挙げていた疑問点を整理したくらいだ。

 首尾良く報告可能となるかは分からないが,認められたとしても,秋の学会の報告準備は,今取りかかっている仕事を仕上げた後,6月以降になろう。

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 問題別分科会報告申請書

・報告(a) 「論題」(日本語および英語)
 剰余価値論は不要か?
 Is the surplus value theory unnecessary?

(b) 氏名{日本語(ふりがなも併せて)およびローマ字表記}と所属(日本語と英語)
。。。。

(c) 報告概要(200字以内)

物量体系から余剰発生を示し搾取の存在証明とする理論は,1)余剰の源泉を労働に求める剰余価値実体論に止まり,如何に形成されるかという剰余価値形態論を欠く,2)労働の客観性を所与としているため,a.自己目的的な面もある家庭内の労働を賃労働と同質の定量的生産的労働に限定している,b.定量的労働を量的確定性の高い価値形成労働に限定し,併せて多様な労働の理論的な把捉を困難にしている。

(d) 予定コメンテーターは問題別分科会の他の報告者2名とし,..。
 。。。

2024年4月18日木曜日

分科会報告の申請原案

  昨日,経済理論学会第72回大会(2024.10/14-15,立教大学)における問題別分科会「資本主義の基礎理論」での報告のお誘いを受けた。

 同分科会では,今年度,、マルクス価値論ないし労働価値説の現代的可能性や問題点をテーマにする案があり,具体的には置塩理論,小幡理論,その他の3つの報告を並べ,相互にコメントさせようとしている。

 両理論と並ぶ理論を構築しているわけではないが,この2年続けて小幡先生の剰余価値論の余剰論への組み替え論を批判する報告をしてきたので打診があったのであろう。

 お誘いとか打診といっても最終的には来月以降の幹事会で認められない限り,実現しない。

 何より報告希望者自身が報告申請し認められばならない。

  〆切はまだ先5/3だが,リライトすべき論文のテーマとも係わるので,早速その原案を 綴ってみた。

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・報告(a) 「論題」(日本語および英語)
 剰余価値論は不要か?
 Is the surplus value theory unnecessary?

(b) 氏名{日本語(ふりがなも併せて)およびローマ字表記}と所属(日本語と英語)
。。。。

(c) 報告概要(200字以内)
多様な労働の理論的把捉という点から労働を単位とする物量体系から余剰発生を示し労働搾取の証明とする理論への疑問は①労働の定量性を所与とし家庭内の労働をすべて賃労働と同質と捉えている,②生産過程における労働をすべて量的確定性の高い労働と捉え,価値形成/非形成労働の別がない,③投入物の内,労働を単位とする根拠が労働観や労働力の特質に求められ,資本主義固有の搾取論ではない。商品価値に即した説明が必要。

(d) 予定コメンテーターは問題別分科会の他の報告者2名とし,..。
 。。。
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 3つの理論,見解を相互にぶつけることで労働価値説の現地点を確認しようという企画だからではあるが,批判中心で,しかも労働価値説との関連が明確ではない。
 そもそも200字以内という紙幅制限があり,あれこれといてはいられないという事情がある
 〆切まで2週間近くあるので,さらに練ってみたい。

 


在職時と変らない

  半月のご無沙汰だ。
 4月からどこにも属さない個人事業主になったものの,その生活スタイルは確立されていない,模索中だ。

 この間,授業の準備もあったが,そもそも中々授業が始まらない。
 前任校は4月12日(金),私学は19日(火),担当授業がようやく始まる。
 やはり対外的な責務,端的には仕事が入っていなければ,外出する必要はない。
 「今朝は寝坊してしまった」とか,「家の用事がある」とか様々な言い訳を立てて外出を控えがちとなる。
 授業があれば,気分転換に非常勤講師室を仕事場として利用できるが,ずっと同じ場所,自宅にいると,だらだら事に当たり,集中力を発揮できない。。

 この間,論文リライトには手を染めず,その構想を練る期間に当てていたが,授業の準備,後処理が入った来たこともあり,ここしばらくは全く進んでいなかった。
 今後は,自宅,非常勤講師室,カフェと場所を切り替えながら,また授業の準備・後処理授業の準備,情報収集と内容を切り替えながら,執筆時間を確保する必要がある。
 外的枠組みに合せて自分の業務を進めているという点は在職時と変らない。

 また,昨日になって経済理論学会全国学会における分科会報告のお誘いがあった。
 リライとしようとしている論文のテーマとも重なるので,お誘いに乗り,報告に応募することにした。
 タイトル,概要の〆切は5月3日だ。 
 「毎日が日曜日」とのんびりしている内に尻に火が付いた形だ。

 たっぷりある時間を自分で率先して活用して物事を進めるというのも在職時と変らない。

2024年4月2日火曜日

T先生からのメール(2024/4/2)

  日中,親しくして頂いているT先生からメールが届いた。

先日の..。
さて、いよいよ「フリーの身」になられたとのこと、如何ですか?

まだ、残務があろうかと思いますが、時間がとれるようになったら仙台で細やかな研究会などはどうでしょうか。
急ぎませんので、お考えください。

 こちらも、この4月からは「非常勤」も終わり、残すは「生涯学習」のみになりました。

 早速以下のように返信した。

 来週金曜日からY大で「経済原論1/2」が,再来週火曜日からT大で「資本主義経済理論1/2」の講義が始まります。
 それ以外の曜日は自宅にいる予定です。

 但し,近所のカフェが閉鎖されたため,週1,2回,市街地のカフェに転戦する予定です(WiFiが早い,何より安定しているカフェが好きなのです)。

 また,夕方から近所ののスポーツジムに通っています。

 研究会とのことですが,最近の関心は,純原論分野の他は,貧困の所在,あり方に向いています。
 橋本さんのアンダークラス論に見られるように,非正規雇用というだけでは貧困はありません(格差は問題ですが)。
 しかし,ひとり親の子どもの貧困率は50%を超え深刻です。
 その原因は何か,働き方なのか,社会保障制度の問題なのか,関心があります。

2024年3月31日日曜日

しばらく転戦

  2月末から会議のある日以外は有給休暇に当て自宅やカフェで読み書きしてきた。
 この間考えてきたことは今まで書いたり報告したことさほど変わらない。その延長線上にあるが,兼ねて抱いてきた疑問を再確認した。それについてはまた後で。

 そうこうするうち,論文リライトの必要性が生じた
 この間,追ってきたことと密接に関連する面はあるが,しばらくはリライトを優先することになる。
 いきなり書き出すよりも,しばらくはそのイメージを膨らませてみたい。


2024年3月20日水曜日

送別会での挨拶(2024.3.19,その2)

  2024年3月19日(火)教授会後の挨拶

2024年3月19日火曜日

送別会での挨拶(2024.3.19,その1)

 2024年3月19日(火) 臨時系会議での挨拶

2024年3月11日月曜日

送別会での挨拶(2024.3.6)

  3月6日は昼休み,職組の送別会に招かれ,弁当を食しつつ,図書券まで頂いた。

2024年3月10日日曜日

送別会での挨拶 2024.3.4

この間,労働力商品概念について考えてきたが,今まで報告してきたこと,書いてきたことのまだ延長線上にあるように思うので,もう少し進展してからいずれ。

 先週は経済・マネジメントコースと職組人文支部でそれぞれ送別会を開いて頂き,送別の辞を述べた。

2024年2月27日火曜日

這々の体

  研究室の後片付けについて,前回,自宅に持ち帰るのは後2箱に収めたいと述べた。
 しかし,実際に荷造りするとなると捨てられない本が一つ二つと出てきて,26日(月)は6箱余りの本を持ち帰った。
 26日中には片付かなかったので,翌27日(火)もクルマで登校することになった。

 当日は降雪が予想されていたとは言え,十歳はこちらの予想を超えていた。

 朝の県境の国道286号線は時々地吹雪が舞い,一瞬ホワイトアウトのように視界が閉ざされることもあった。トンネルを出て高速を降りると,山形側は車道の両端に雪が残り,道が狭くなっていた。

 研究室に残っているのは,文房具やPC関連機器,備品だけだと思っていたが,捨てがたい資料も1箱を埋めるほど残っていた。結局,段ボール5箱に軽量ラック2つなど私的に持ち込んでいた家財道具を持ち帰ることになった。
 それでも床には様々なモノが転がっている。
 最後は,紙資源として回収できるか,すべきかなど考えずにゴミ箱に次々に詰め込み這々の体で退却した。(それでもまだ車に乗せられなかったモノ,言い換えると利活用可能なモノが残っているが,後はバッグに詰めて持ち帰ることも可能だ)

 今回は車で運び出す前に,自宅に持ち帰る書籍を絞り込むために,前々週から基準を立てる,棚毎に選り分けてみるなど,手前味噌ながら入念に準備したつもりだが,結局,箱詰めの段階で「例外的に」持ち帰るモノが次々と生じて,作業時間が大幅に延長した(26,27日は残った年休を割り当てていた)。

 持ち帰ったものの,文具・備品以外の箱は全く荷解きしていない。
 書架スペースは限られている。
 まずは見在書架を占有しているモノの選別から始めるしかない。 


2024年2月24日土曜日

ようやく6,7合目

  2月20日(火) 研究室の本を整理し100サイズの段ボール箱8つを自宅に持ち帰ったところで,自宅に引き取るのは後せいぜい2,3箱だなと観念した。段ボールとしては置き場をあっても,並べる初夏スペースには限りがあるからだ。

 そこで,翌21日(水)は午前中に本を片っ端から始末した。最初に取り寄せた120サイズの段ボールは本を一杯詰め込むと重すぎで持ち運ぶ内に腰を抜かす。そこで倉庫まとして使うことにした。として使うことにした。
 まず研究室に残している本のうち,重要度に応じて棚に振り分けた。
 ドアを入って左側が新旧宇野派の文献,右側がその他の文献及び古後者後者のほとんどは本学赴任以前に購入したもので,赴任後はほとんど手に取っていない。
 20日(火)はしばしば用いる左列の本を自宅持ち帰る保存用と処分用に仕分けしていたので時間が掛かった。
 22日(水)午前中はこの間,余り使っていなかった右壁面の書架の本の内,敢えて保存する本のみ摘出し,他はすべて処分することにして120サイズに段ボール箱に詰め,倉庫に運んだ。
 左壁の文献にもまた右壁にも重要な文献が含まれているのは当然だが,現在の問題関心辛いってやがて手にすると見込まれないものまで持ち帰っていては切りがない。新たに必要になれば,その時,取り寄せると割り切るしかない。午後は教授会が予定されていたので,後50から100冊残したところで作業を終えた。

 これを100サイズの段ボール箱にせいぜい2箱分に絞り込む必要がある。
 というのも,自宅に持ち帰るのは本以外にもPC等機器および細かな備品があるからだ。
 研究室を引き払うのもようやく6,7合目。クルマで後2往復は必要,というところか。

 23日(木)は年休を取って自宅の用事。
 その合間に,学生バイトの貧困率の推移,子どもの貧困率の推移に関する文献。
 学生の貧困率は80年代からやかに上昇しつつも,2015年前後いったん落ち混み,矢形再び上昇に転じている。興味深い点だ。
 


2024年2月17日土曜日

どう変えるのか変わるのか

 先週,いや先々週からはじめた「研究室仕舞い」が一向に進まない。
 もう10年近く前,耐震工事のために研究室を一時退避したときは一週間も掛からなかったという微かな記憶が残っていたため悠長に構えていたが,その時は書籍,備品を臨時研究室にそっくり移せば良かったので,自宅に持ち帰るか処分するか悩む必要がなかった。今回はそうはゆかない。最近の論文なら殆どが2,3年後に公開されるし,ノートもファイルとして保存している。それに対して,デジタルで保存されていないものは処分すると再現でない。他方で,じじ10-20年開いてこなかった本をいまさら手に取るとは思えない。前稿でも記し逡巡は簡単には収まらない。
 おまけに今週は月曜日が祝日で,火水木も午後会議等あり,午前中しか研究室に入れなかった。
 結局,最後の金曜日になって書架の上に平積みしている雑誌や段ボール類を卸して処分した。論文コピー等は殆どを紙資源として処分することにした。段ボール1箱分残しているが,これもさらに選別の余地がある。
 そして夕方にはいよいよ書籍の選別に着手した。金曜日行ったのは新書,教養書。
 基本はやはり紙資源としての処分。残る文庫は古典名作もあり,半分以上残したが,まだ選別の余地はある。
 来週はいよいよ書籍の処分である。 

 週末になってようやく自分の時間が取れた。
 17日土曜日手にしたのは大都市自治体が行った非正規シングル女性(子なし)に関する調査をもとにした論文1編のみ。

 興味深かったのは次の2点。

  1. 女性非正規雇用のシングルと既婚者の比較。
    • どちらも個人収入は年200万未満が多いが,既婚者の世帯収入で200万円未満は少ない(配偶者の年収で生計を立てている家計補助的労働)。
    • 週の労働時間もシングルが長いのに対し,既婚者は短い(いわゆる主婦優遇措置に対応した「就業調整」の影響であろう)
  2. どちらも正社員になれなかった,正社員としての募集がなく非正規になったという「不本意非正規」が多いし,現在の仕事・賃金に不満・不安を抱いているにもかかわらず,今後に関しては「非正規のまま現在の会社に勤めたい」「他の会社で非正規として働きたい」が多い(既婚者の場合,主婦優遇制度の影響だろうが,シングルがなぜ?)

 よく理解できない,腑に落ちない。
 もっと勉強しろということであろう。

 この1年間,勤め人を終えたらどうなるか気になっていたが,研究室を引き払い今までと変わらないような気がしてきた。







 

  

2024年2月13日火曜日

先送りに終わった週末

  先週は平日の内は引き払う研究室の書類整理に追われた。
 最大の問題は書架の本の自宅配送と処分との分別なのだが,その前に書類の分別をしようとした。各種委員会の書類,論文のコピー,ノート類。しかし,後二者はタイトルを読むと,いろいろ思い出されて判断に迷ってしまった。内部労働市場について調べ出した時期の文献,ゼミの記録,さらに遡って大学院生時代のノート。それぞれ思い出がある。しかし,これらを一々保存していては自宅が倉庫になり自分の居場所がなくなる。割り切るしかない。
参考文献の内,当時の現状分析,調査に関しては今では古いので処分しても構わないだろう。また自作ノートは,そのエッセンスが頭に残って血肉になっていなければ,ノートとして不十分ということだから,再び原典に当たるしかない。つまり処分しても構わないだろう。問題は大学院以来のゼミの記録。自分では再現できないからだ。取り出せば,思い出が蘇るとは言え,この2.30年放っておいたということはその再現可能性は今後も低いのであろう。

 週末三連休は徐々に起床時間が遅くなった。
 4月からの脱勤め人生活が思いやられる。
 三連休では12月に仕上げた原稿と関連する文献を読み直した。
 原稿に関しては,方法論に傾斜した分,理解を得るには補足の必要があると思えた。
 しかしながら,参考文献を読み返すと,経済原論の理論的構成,方法についてさらに考究する必要性に気付かされた。
 中堅以下では,労働価値説に関して,価値と投下労働との関連を緩めて,物量体系における技術的関連性から価値と労働量との関係を説く傾向がある。
 個別の商品レベルでの価値と労働との関係に拘っていては「転形問題」の軛から抜けだけ内が,成果物と労働の量的技術的確定的関連性から労働量を規定すれば事足りるという理解からである。
 しかし,11月の学会報告及び12月の原稿でも指摘したように,

  • 生産過程に投下される労働すべてが量的技術的確定性を有するとは限らない(価値と労働との関連性を説く場合には,量的確定性のある労働を限定する必要がある)
  • 社会的再生産との関係が保障されておらず,流通主体の私的理解を体現した流通論における価値概念と,量的技術的確定性によって決まる生産論の価値概念は結び付かない(関連が不明)。
  • (付言すれば)価値と労働との関連付けが一方通行。資本の生産過程包摂による商品経済が社会的に全面化している以上,価値,資本による労働生産過程の規律という側面「相互媒介性における流通の先行性」(山口[1990]:9-14)もおさえる必要がある。
    つまり,価値と労働の規則性を考える際には,生産過程における量的技術的確定性が基盤にあることは間違いないにしても,その場合の労働は生産過程における労働すべてではないこと,量的技術的確定性の確率には資本の起立性が絡んでいることを抑えておく必要がある。

  なお検討を要する,が結論で,用は先送りとなった。

2024年2月4日日曜日

なぜ生産的労働か・2

  前々回,なぜ生産的労働を用いるか論じた。
 価値論を用いて現代の多様な労働を理論的に把捉するには生産的労働概念の設定が必要という趣旨であった。
 しかし,中には価値論を奉じながら生産的労働概念を積極的に用いない,あるいはまったく用いない見解も存在する。というか,ほとんどがそうで,生産的労働概念の意識的適用を図っているのは私だけだ。
 ではそれらは多様な労働をどのように把捉しようとしているのか?

 多くは現代の多様な労働といっても家事労働,NPOの労働などを「単なる活動」と理解し,「労働」とは位置付けていないのではないか。

 生産的労働概念が古典派経済学の初期に出現したとき,売買益(値ざや)を利潤の源泉ととらえる重商主義経済学への批判という意味で,新価値,付加価値は生産されるという理解であった。つまり価値形成労働の表象としてであった。
 他方で,スミス以来,有体物を生産する労働が生産的労働という理解,物質基準(敬愛原論分野では資本主義的生産に限定されない普遍的規定という意味で本源的規定説)はあったものの,剰余価値を生産する労働が価値形成労働という付加価値基準(経済原論分野では資本主義的生産形態に固有という意味で形態規定説)が主流であった。
 出発点が新価値形成の有無であったから,生産的労働概念の適用はある労働が価値を形成する生産的労働か形成しない不生産的労働かに集中した。すなわち形態規定説に立脚すると,資本と交換される(資本の投下対象である)労働は剰余価値を生む生産的労働であるのに対して,収入と交換される(資本としては投下されない)労働は不生産的労働であった。しかし,賃金が支払われない家事やケア,ボランティアは資本との交換でも収入との交換でもなく,労働ではない「単なる活動」扱いであった。

 本源的規定説に立脚する場合は,家事労働も剰余価値を産まないという意味では不生産的労働を位置付けられるけれども,いわゆるサービス労働は一様に不生産的労働と位置付けられ,例えば私学の教育労働(形態規定説では生産的労働),家庭教師の労働(形態規定説では不生産的労働),親兄弟による学習指導の区別がつかないことになる。

 関心が価値形成,非形成にある限り,賃金が支払われない無体物の生産に関心が向けられることはなかった。そして,価値論の研究が進むにつれて,価値形成労働の表象に過ぎない生産的労働への関心は失せていったのである。生産的労働か否かという迂回的議論を通さなくても,価値形成労働の基準を明らかにすれば,価値を生むか否かを論ずることが可能になるからである。

 例外的に中川スミは,フェミニスト経済学からのマルクス批判に対抗する関係で,家事を「労働」と捉えていたけれども,生産的労働概念を活かせず,賃労働より「私事性のヨリ深い」労働としてしか位置付けられなかった。
 すなわち,家事労働が価値を生むか,また家事労働が労働力商品の価値に算入されるかという2つの問に対して,家事労働は賃労働に比し「私事性がより深い」労働であることを根拠に「否」と答えた。価値形成労働と言っても,賃労働はその産物である商品が売れて初めてのその社会的位置付けが判明する私的労働であり,共同体社会における労働や計画経済体制における労働のように初めからその社会的位置付けが保障された「社会的労働」ではない。賃労働とも異なり,その産物が市場で売られることにより社会的位置付けが確認されることすらない家事労働は賃労働よりも「私事性がより深い」から価値を形成しないし,労働力商品の価値にも算入されない,というのである。
 しかし,その労働が価値を形成するか否かと,労働力商品の価値に算入されるか否かとは理論的意味が異なる。有体物であれ無体物であれ,その産物が商品として市場に供されることのない家事労働が商品の属性である価値を生まないのは当然である。しかし,労働力商品の価値に算入されるか否かは別である。中川はクリーニングは労働力商品の価値を生むと認めている。しかし,家庭内の洗濯とは異なり,クリーニング労働については価値形成労働と認める論者もいれば認めない論者もいる。つまり,ある労働が価値を形成するか否かと労働力商品の価値に算入されるか否かは別の問題なおである。後者の労働力商品の価値に算入されるか否かは,第三者的に費用として計上できるか否か,つまり労働に定量性があるか否かで判断されるのであり,それが価値形成労働か否かとは別の文脈なのである。言い換えると,家事を労働と認めた中川には価値形成労働と区別された生産的労働という概念がない,ということになる。両者の別が理論的に整理されていなかったから,家事が価値を生むか否かと労働力商品の価値に算入されるか否かという角度の異なる質問に対し,賃労働より「私事性がより深い」という無内容な回答をしたのである。無内容と祠宇のは,家事労働が私事性の深いということの根拠が商品を生まないという意味では家事労働の定義と同義反復であるからである。

 生産的労働はその誕生時より価値形成労働の表象としてある買われてきたため,商品を生まない家事労働やNPOの労働には関心が向けられなかった。逆に家事労働に関心を向けた労働者は,生産的労働概念が掛けていたために,労働の価値形成問題と費用計上問題を区別できない状態,理論的混乱に陥っていた。


なぜ労働力商品なのか

 もう一つ,よく聴かれる,あるいはそう問われているように思うのは,なぜ労働力商品概念を用いるのか,ということである。
 労働力商品概念については相当の研究蓄積があるので,思いつくままに論じるわけには行かない。
 しかし,昨夏の研究会で数理派の中堅研究者は労働力商品概念を敢えて使わず,別の概念を用いる試みを論じていたので,むしろ労働力商品を使わないで資本主義経済を論じられるのか気になった。 

 その報告は,労働力は本人と不可分離なので売買不可能であり,むしろ労働力請求権が売買されるという主張であった。
 労働力商品概念のポイントは,法的には雇用とされることを(労働力の)商品売買と捉え返している点であろう。

  1. 雇用は封建社会までの人格的拘束関係からは自由である。資本主義固有の生産関係を表わすことになる。
    現在,世界中で,従来フリーランスないし個人事業主と位置付けられていたギグワーカーを雇用として保護すべきか否かが問題になっているように,業務委託と雇用の違いは主に指揮命令権の有無にある(その他に労働としての対価性の有無,報酬が一定時間拘束した対価なら雇用)。業務委託の場合,求める業務(労働ないしその成果)の指示だけで,その遂行方法,場所等に本人の裁量性を認めている。これに対して,雇い主に指揮命令権を認める雇用は,労働の手順,場所の指示,管理を伴う。
  2. しかし,雇用のままでは,資本主義経済のメカニズムを表現できない。家庭内の執事の場合も雇用に含まれる。労働力の商品化とすることによって,それが収入との交換かそれとも資本との交換かを明確にできる。
    つまり,それ自体価値を持つ商品とすることによって資本主義的経済機構の叙述が可能となる。
  3. 資本・賃労働関係間で商品交換が行われると捉える場合,その商品が労働か,労働力かが問われる。
    労働の売買という理解では不等価交換によってしか価値増殖を説明できない。労働力商品の価値と労働の生み出す価値との差による価値増殖を説明するのが剰余価値論である。逆に言うと,剰余価値概念不要論とは価値増殖を権力関係,階級関係から説くこと,階級関係から収奪を説明することになり,形式的には自由式,契約の自由の原則を取りながら,価値増殖を果たす資本主義経済の特殊歴史性を明らかにできないであろう。
    労働力請求権の売買とする見解も同じである。そのポイントは労働力商品化,労働力商品の価値という概念を認めない点にあるから,剰余価値という概念を使っても使わなくても,階級関係から利潤の源泉を説明することになる。


 



2024年2月3日土曜日

なぜ生産的労働か

  レポート採点を含む生成評価が後1科目残っているが,ほぼ春休みに突入したので,これまでのことを振り返り,今後のことを考える材料にしたい。

 「なぜ(今更)生産的労働概念に拘るのか」と聴かれることがある。

 ここ10年近くそのことばかり発表してきたので「論文読んでくれ」と答えるのも億劫になるが,論文書き連ねても理解されていないとすれば,簡潔な回答を与える必要がある。


 一言で言えば,

価値論を奉じる経済学では,価値形成労働だけでは多様な労働を理論的に把捉できないからである。

  1. 価値形成労働だけでは,商品を生みながら価値を形成しない労働も,商品を生まないから価値を形成しない労働が価値非形成労働として一括されてしまう。また,商品を生まない労働,家事・ケア労働,NPOの労働の中にある違い,相手に寄り添う労働とテキパキとこなされることが求められる労働が価値非形成労働として一括してしまう。
  2. 生産的労働を価値形成労働とを分け,定量的労働と成果との間で量的技術的確定性の高い労働と区別することにより上の職別が可能となる。
    • 生産的労働とは普遍的な,言い換えると資本主義社会に限定されない生産過程という視角の下に設定される。同じく普遍的な概念,労働過程が人間労働の主体性を表現しているのに対して,労働過程を生産物視点で捉え返した生産過程では,主体性を強調する労働過程では人間労働の対象,純粋な客体と人間の「手の延長」として峻別されていた労働対象と労働手段が「生産手段」として一括されているように,主体的な人間労働も「生産的労働」として手段化したもとして捉えられる。これは言い換えると,自己目的性が強く,手段性の低い労働の存在を認めていることになる。不生産的労働である。資本の下の賃労働には自己目的性が強い不生産的労働は存立の余地が乏しいが,賃労働ではない労働,家事労働,ボランティア活動には相手との関係を重んじ,時間の許す限り寄り添いたいという労働,したがって定量性の乏しい不生産的労働が存在する。もちろん,家事労働もボランティア活動も,例えば被災者に一日100人分の食事提供など一定のサービスを達成するには,食材の運搬,整理,加工などにテキパキとこなす定量的労働,生産的労働が不可欠である。家族,被災者に時間の許す限り寄り添う定量性の乏しい不生産的労働ばかりでは所期の目的は達成できず,相手を失望させることになる。定量的生産的労働を土台に時間の許すかがり相手に寄り添遺体という自己目的的で定量性の乏しい不生産的労働も可能となる関係にある。
    • 他方,普遍的な生産的労働の定量性と区別して,成果との量的技術的確定性の高い労働を設定するということは,商品の価値を商品一般の属性としての広義の価値と価格変動の重心を規定するという意味での狭義の価値とに区別した上で,狭義の価値を形成する労働を追加供給が容易な,資本の下の単純労働,無駄を認めない資本の効率性原則で量的に締め上げられた,締め上げることが可能な単純労働に限定したということである。これによって同じく商品を生産する労働であっても,小生産者のような非資本によって投下される労働や単純労働とは言えない労働,熟練労働が価値非形成労働として摘出されることになる。
 

2024年2月1日木曜日

最終講義として

  1月26日,最終講義を行なった。
 15回のテーマの内,どこかを空けて,最終講義とした。
 何を話そうかと迷って「現代のワーキングプア」とした。
 当初は,経済原論における貧困の位置付け(絶対的窮乏化なのか循環的貧困なのか)から発展段階論(労働者の富裕化や企業定着化,熟練・不熟練の別,正規・非正規の別)を踏まえて現状分析へとつなげるべきだが,不勉強と時間的制約のため,現状の話にした。
 また格差と区別して貧困に絞った。自立して(保護がなければ)生活できないというのが貧困とすれば,格差は是正しなけばならないとは言え,格差があるだけでは自立できないとまでは言えない。
 あるいは「生活の遣り繰りが大変」レベルは今までと変らない。子どもを大学にやる,仕送りするのは労働者にとっては以前から大変だった。

 その意味での貧困をワーキングプア論を手掛かりに解説してみた。

 話が長くなるので粗筋のみ述べると,

  1. 後藤道夫のワーキングプア論は,ワーキングプア拡大の背景を,日本型雇用の解体・縮小による「現代のワーキングプア」発生に求める点に特徴がある(90年代までのワーキングプアは日本型雇用の枠外,「周辺的」存在だったとして)。
    しかし,日本型雇用の特徴,解体の判別基準を新卒一括採用,長期雇用,年功序列型賃金に用いたたために,2019年の論文では「現代のワーキングプア」を賃金の年功性が失われた男性ブルーカラー職業群に限定することになった。
    つまり年功性が維持されているホワイトカラーは除外され
    女性労働者は視野の外に置かれている。
    もともと「日本型雇用の範囲を100人以上規模企業の男性正規労働者と男女正規公務労働」とされていたため,働く女性の貧困は,日本型雇用とは無関係な旧来型のワーキングプアということになる。
  2. 橋本健二のアンダークラスは相対的貧困率を指標にすることによりワーキングプアの中心に単身女性がいることを浮かび上がらせた。
    まず労働者階級は賃金によって自身と子息の再生産が可能な存在であるのに対して,非正規雇用は再生産不能な賃金しか得られないとして労働者階級から分離し,アンダークラスと位置付けた。
    後藤のアンダークラスとは非正規雇用から学生や家計補助的な労働に止まる主婦パートを除いた900万人余りである。
    そのアンダークラスの中でも,高齢者や59歳以下の男性非正規労働者に対し,59歳以下の女性(すべて非婚女性)はより一層貧困率が高いことも明らかになった。
    しかし,非正規雇用であれ,なぜ賃金では自身と子息を再生産できないのか,は明らかではない。
  3. 他方,最低賃金に関する資料によれば,賃金の特に低い,最低賃金近傍者(最賃の1.1倍水準まで)は,一般労働者(フルタイム)よりも短時間労働者,短時間労働者の中でも女性労働者に多い。
  4. これは男性長時間労働,女性短時間路務言う「男性片働きモデル」という意味での日本型雇用が依然として健在であることを示しているのではないか。
    つまり「現代のワーキングプア」とは非婚女性,その4割がシングルマザーであり,日本型雇用の解体によって生じたのではなく,その残存によって存在が作り出されているのではないか。



2024年1月7日日曜日