2010年5月22日土曜日

教育者であること

前回,学生から「困った先生」扱いされていると記した。
その日も日,大学院時代の副主任教員であった福留久生先生から,春先送った抜刷に対して丁寧な感想を頂いた。

九州大学を定年退職されて,しばらくどの大学にも属さず「悠々自適」の生活を送っていると聞いていたが,やむを得ぬ事情?で2年前から福岡国際大学に奉職されている。
その大学紀要の抜刷「マルクスの蜂起革命論」とともに,拙稿に対する感想と誤植の指摘を記して下さった。

抜刷や本を送られても,論文を執筆したり,構想を練っている最中は,自分のテーマと密接に関連しない限り,目を通すことは難しい。せいぜい関心のある箇所だけ流し読みする程度である。
感想を記すほど丹念に読むことはなかなかできるものではない。

他方,自分としては担当学生への指導は十分ではない,むしろ困った先生である。
しかし,決して教育や学生に無関心であるわけではない。
また時間を割いていないわけではない。

違いがどこにあるかと言えば,生来の資質を別にすれば,コーティングのスタンスであろう。
「長嶋タイプ」に分類されているのは,指導の見極めが早い,せっかち過ぎることの反映ではないか,というのが福留先生の,懇切丁寧なコメントを見て感じたことである。

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