合同ゼミのテーマ設定は難しい。
ゼミ毎に勉強していることが違う,ということもあるが,
大学によってカリキュラム編成が異なる。
学部学科の性格により経済学の科目が多いところもあれば,少ないところもある。
皆が議論に参加できるようにテーマやラウンド毎のお題を設定する主催者側の苦労は並大抵ではない。
三大学合同ゼミでは今回「『原発事故』を考える」をテーマに設定した。
当初メーリングリストの開催案内では,参加者に1)なぜ日本が原発大国になったのか,2)必要なエネルギーの確保は可能かを調べてきて欲しいと呼びかけていたので,てっきり内容は原発を推し進めた日本の旧通産省と電力会社の原発推進体制や脱原発の可能性が中心だと思っていた。
ところが,実際は,題材として使うとは聴いていたが,毎日小学生新聞に掲載された元記者の東電批判の記事と,それに対する東電社員の,小学生の子供からの反論を読んで,小学生に返事を書く,というものだった。
小学生の文章と言っても良く練られたもので,それ自体は問題ない。
問題は元記者の批判も小学生の反論も,今回の原発事故の「責任を問う」ものだったことだ。
近代の責任観念は,権限と対になったものだから,
ある者に権限以上あるいは以外の責任を問うことができない。
したがって,東電の権限はどこまでか,あるいは法律上免責があるのかをまず確認しなければならず,専門家以外の議論には馴染まない。
しかし,一般に良くある責任論は「無限定な」責任論である。
一方でこんな大事故に東電は普段から何をしていたのか問い,
他方で,原発を推し進めたのは国民の快適な生活や産業振興,経済成長のためだから責任は皆にあるという。
あるいはまた責任の大きさは国民と東電,国とでは違うという。
内容は異なるが,権限に対応しない無限定名責任論という点では同じである。
権限とは関係ない責任論だから
感情の赴くままにいろいろな物言いができる。
しかし,議論として噛合うことはない。
せいぜい(誰も無関係とは言えないから)「これを契機に自分たちのライフスタイルを見直そう」
「原発のことをもっと学ぼう」と言うことで終わる。
これだったら「脱原発の方が面白かった」のではないか。
以前だったら,資源のない日本が利便的な生活を享受し,経済成長を遂げるためには原発依存やむなしと
自分たちにも子孫にも安全な生活を守るためには,多少の生活の不便を負ってもまた経済成長を落としても脱原発が望ましいのどちらかだった。
ところが,現在は,主要マスコミや財界団体は脱原発を非現実的な理想論と歯牙にも掛けない振りをしているが,
中堅財界人のSやMやW,,つまり金儲けのことしか考えていないが「脱原発」を考えている。
彼らは生活の利便性を犠牲にすることなどほとんど考えていないだろう。
自然エネルギーへのシフトや発送電分離,地域独占の解体は新たなビジネスチャンスとしか考えていないだろう。
彼らの参入によってこそ,帰結の明らかな二項対立に囚われずに,いろいろな可能性と自分たちの生活について先入観に囚われない議論が可能となるのではないか。面白かったのではないか。
三大学合同ゼミでは,共通論題について,サブテーマ(お題)を2,3つ立てて,テーブル毎に議論し,意見をまとめて貰うが,,
最後に教員が講評することになっている。
今回自分が講評で話したことは上のようなことだった。
7月24日 スターバックス国分町店。8時半頃、客は自分一人。9時過ぎもう一人。現在4名。繁華街の朝は遅かった。昼は毎度のように吉野家牛丼並盛り生卵掛け。再びスタバに戻ってお代わり100円コーヒー。夕方まで粘った後,ジムでジョギング&リラクゼーション・マッサージ。
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