前々回,なぜ生産的労働を用いるか論じた。
価値論を用いて現代の多様な労働を理論的に把捉するには生産的労働概念の設定が必要という趣旨であった。
しかし,中には価値論を奉じながら生産的労働概念を積極的に用いない,あるいはまったく用いない見解も存在する。というか,ほとんどがそうで,生産的労働概念の意識的適用を図っているのは私だけだ。
ではそれらは多様な労働をどのように把捉しようとしているのか?
多くは現代の多様な労働といっても家事労働,NPOの労働などを「単なる活動」と理解し,「労働」とは位置付けていないのではないか。
生産的労働概念が古典派経済学の初期に出現したとき,売買益(値ざや)を利潤の源泉ととらえる重商主義経済学への批判という意味で,新価値,付加価値は生産されるという理解であった。つまり価値形成労働の表象としてであった。
他方で,スミス以来,有体物を生産する労働が生産的労働という理解,物質基準(敬愛原論分野では資本主義的生産に限定されない普遍的規定という意味で本源的規定説)はあったものの,剰余価値を生産する労働が価値形成労働という付加価値基準(経済原論分野では資本主義的生産形態に固有という意味で形態規定説)が主流であった。
出発点が新価値形成の有無であったから,生産的労働概念の適用はある労働が価値を形成する生産的労働か形成しない不生産的労働かに集中した。すなわち形態規定説に立脚すると,資本と交換される(資本の投下対象である)労働は剰余価値を生む生産的労働であるのに対して,収入と交換される(資本としては投下されない)労働は不生産的労働であった。しかし,賃金が支払われない家事やケア,ボランティアは資本との交換でも収入との交換でもなく,労働ではない「単なる活動」扱いであった。
本源的規定説に立脚する場合は,家事労働も剰余価値を産まないという意味では不生産的労働を位置付けられるけれども,いわゆるサービス労働は一様に不生産的労働と位置付けられ,例えば私学の教育労働(形態規定説では生産的労働),家庭教師の労働(形態規定説では不生産的労働),親兄弟による学習指導の区別がつかないことになる。
関心が価値形成,非形成にある限り,賃金が支払われない無体物の生産に関心が向けられることはなかった。そして,価値論の研究が進むにつれて,価値形成労働の表象に過ぎない生産的労働への関心は失せていったのである。生産的労働か否かという迂回的議論を通さなくても,価値形成労働の基準を明らかにすれば,価値を生むか否かを論ずることが可能になるからである。
例外的に中川スミは,フェミニスト経済学からのマルクス批判に対抗する関係で,家事を「労働」と捉えていたけれども,生産的労働概念を活かせず,賃労働より「私事性のヨリ深い」労働としてしか位置付けられなかった。
すなわち,家事労働が価値を生むか,また家事労働が労働力商品の価値に算入されるかという2つの問に対して,家事労働は賃労働に比し「私事性がより深い」労働であることを根拠に「否」と答えた。価値形成労働と言っても,賃労働はその産物である商品が売れて初めてのその社会的位置付けが判明する私的労働であり,共同体社会における労働や計画経済体制における労働のように初めからその社会的位置付けが保障された「社会的労働」ではない。賃労働とも異なり,その産物が市場で売られることにより社会的位置付けが確認されることすらない家事労働は賃労働よりも「私事性がより深い」から価値を形成しないし,労働力商品の価値にも算入されない,というのである。
しかし,その労働が価値を形成するか否かと,労働力商品の価値に算入されるか否かとは理論的意味が異なる。有体物であれ無体物であれ,その産物が商品として市場に供されることのない家事労働が商品の属性である価値を生まないのは当然である。しかし,労働力商品の価値に算入されるか否かは別である。中川はクリーニングは労働力商品の価値を生むと認めている。しかし,家庭内の洗濯とは異なり,クリーニング労働については価値形成労働と認める論者もいれば認めない論者もいる。つまり,ある労働が価値を形成するか否かと労働力商品の価値に算入されるか否かは別の問題なおである。後者の労働力商品の価値に算入されるか否かは,第三者的に費用として計上できるか否か,つまり労働に定量性があるか否かで判断されるのであり,それが価値形成労働か否かとは別の文脈なのである。言い換えると,家事を労働と認めた中川には価値形成労働と区別された生産的労働という概念がない,ということになる。両者の別が理論的に整理されていなかったから,家事が価値を生むか否かと労働力商品の価値に算入されるか否かという角度の異なる質問に対し,賃労働より「私事性がより深い」という無内容な回答をしたのである。無内容と祠宇のは,家事労働が私事性の深いということの根拠が商品を生まないという意味では家事労働の定義と同義反復であるからである。
生産的労働はその誕生時より価値形成労働の表象としてある買われてきたため,商品を生まない家事労働やNPOの労働には関心が向けられなかった。逆に家事労働に関心を向けた労働者は,生産的労働概念が掛けていたために,労働の価値形成問題と費用計上問題を区別できない状態,理論的混乱に陥っていた。