6月2日(日)13時より仙台は北山の輪王寺で開かれた馬渡尚憲先生の葬儀は
は,ご親族以外は,お弟子さんたち(+居候の自分)のみの参加だった。
ご家族が近親者のみの「密葬」を強く希望されたためだ。
印象に残ったのは,「お別れの挨拶」にたたれた近親者の言葉だ。
4兄弟の長男であった先生は,父君が若くして亡くなられたため,弟や妹の親代わりを務められたようで,
弟さんは就職の相談に乗って貰ったことを話された後,
「オレの千分の1でも勉強しろ」と諭されたことがあったとエピソードを紹介されていた。
また娘さんの一人は,
「後になって『こんな高みに辿り着けたのだ』と気付くことがある」と
「努力の大切さを教わった」と話されていた。
慕う人の多い大先生にはいろいろなタイプがある。
研究者以外にも市民や労働区慈愛完成者,市民運動家などから慕われる人もいる。
政治家から政策等について提案を求められる人もいる。
ポストの世話をする人もいるだろう。
馬渡尚憲先生は東北大学では学部長や副学長を務められ,県立宮城大学の学長にもなられた。
また経済学史学会の代表幹事も務められた。
宮城大学の学長には,東北大学を定年前に辞めたうえで就任された。
「行政手腕に秀でている」,場合によっては権力志向が強いという噂も聞く。
また,その思考法はかなりプラグマティックであった。
実際,先生は政策志向もお強く,「経済学は政策提言すべき」としばしば研究会で主張されていた。
政策提言できて初めて空理でない学問とのお考えだったように理解していた。
たとえば,経済学原理論における賃金理論への疑問も,会話のなかでは,イギリス恐慌論を調べられて,必ずしも宇野恐慌論の想定するような賃金高騰が恐慌の引き金ではなかったことを真っ先に挙げられていた。
理論モデルの問題は,現実の様々な動きとは必ずしも一致しないことは多々ある。
だからといって直ちに理論が無効とは言えない。
僕が研究会に参加させて頂いた時には,先生は経済学原理論への関心は醒められていて,専ら経済学史の研究をされていたように思う。
そのあまりではないが,純粋に経済学原理論としての研究報告をしていた自分には,現実的含意という点で厳しいコメントを頂いた。
内容上のコメントなら良いのだが,時として経済学原理論の研究を続けることに対するイヤミとも取れる言葉も受けて,正直ムッとしたことがある。
それはもはや学問の言葉とは受け取れなかったので,
先生はかなり遠くの世界にいらっしゃるなぁ,というのがその時の正直な感想だった。
しかし,葬儀後,お弟子さんたちと駅のレストラン街で思い出話などしていて感じたことだが,
現実の政治や政治家とは一線を画されていた。
学部長も副学部長も代表幹事も学問の世界のことであった。
決して学問の世界以外の評価を求められていなかった,とも言える。
自分へのコメントも,あくまで自分の学問的立ち位置を基準としての発言であった,とも言える。
自分の選んだ学問アプローチに忠実だからこそ異教徒には峻烈な言葉を発することになったのだろう。
僕も先生の言葉によって,かえって経済学原理論の研究に邁進しなければ,と奮い立たされた面がある。
その意味では,先生はやはり「学問の人」だった,
先生はなくなる直前までお元気で,大学院での教育や学会報告に強い意欲を持たれていたようだ。
それはご家族並びに近親者には辛いことだろう。
しかし,気持ちが閉塞されたり,手持ち無沙汰だったりする時よりも,お元気で研究に没頭されていた時に亡くなられたのは先生ご自身にとってはむしろ幸いだったのではないだろうか。
重ねてご冥福をお祈りします。
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