2019年10月23日水曜日

意外あるいはやはり

 先週は学内の書類書きに追われ,大して準備もしないまま週末の学会,経済理論学会第67回大会(19/10-19-20,駒沢大学)に出掛けた。
 別に自分が報告するわけではないが,参交うする分科会の報告要旨および本文にもう少し目を通しておきたかった。

 いくつもの報告を聞いたが,
自分の関心は共通論題にもあるオルタナティブ(現在の経済システムへの代替案)だった。
 特に自分より下の世代がどのように考えているかは気になった。
 学生にも人気がなく,ポストも十分得られない冬の時代に経済原論あるいは政治経済学,社会経済学を志す若手,中堅はオルタナティブをどのように考えているか気になった。

 オルタナティブの分科会は,同じ時間帯に関心のある別の分科会が開かれていたため,出席しなかったが,2日目午後の「資本主義のオルタナティブ―資本主義の限界と政治経済学の課題」をテーマとする共通論題に参加してみた。
 3名の報告者のうち,普段は数理的な手法で分析を進めている中堅の報告者は,左派の世界潮流が量的金融緩和や信用創造批判にあることを紹介しつつ,オルタナティブとしては生産手段の国有化を主張していた。量的金融緩和と信用創造否定との関係は,門外漢には相反するように見え,すぐには呑み込めなかったが,結局,行き着く先,代替案としては旧来の共産主義社会を考えているようで意外のようでやはりという感もあった。
 
 あるグループは,研究手法が数理分析であろうとマルクスの草稿解読であろうと,また用いるコトバが共産主義であろうとアソシエーションであろうと,国有化型共産主義を目指しているから。破綻した旧共産主義国は,共産主義ではない(国家資本主義)という認識になっている。
 しかし,たとえ政権選択が「民主主義的に」行われたとしても,旧共産主義諸国の弊害を免れないかはなはだ疑問だ。いわゆる公務員の行動原理と市民の個人的要求に基づく行動原理は異なるからだ。
 もちろんこの問題は共産主義型オルタナティブに限ったことではない。
 
 

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