2014年6月28日土曜日

壁のこちら側

このブログの更新が滞り勝ちなのは,
なにも東北楽天イーグルスやサッカー日本代表のことを書けばグチばかりになるからではない。
チームが不調になる前から滞っていた。

facebookで四六時中ツィートしていてネタ切れになっていたというのもあるが,
現在ではツィートしない日も珍しくない。

6月締切りの仕事に追われて,というのもあるが,
書きかけの論文について述べることは元々めったにない。

言いたいことはあるが,ずっーと言葉にならないでいるからだ。

5月半ば,経済学史学会東北支部定例会では,昨年なくられた馬渡尚憲先生のご業績を振り返る報告が3件あった。
いずれも直弟子の研究者によるものだった。

馬渡尚憲先生は,7,80年代まではいわゆるマルクス経済学の,経済学原理論の分野で論文を書かれていたが,
その後は,東北大で経済学説史を担当されていたこともあり,完全に学説史研究に活動の場を移された。
学説史分野で幅広く研究されていたが,主にジョン・スチュアート・ミルを研究対象とされていた。

お弟子さんによる報告の内2つは,なぜ先生がマルクス研究からミル研究に移されたか,がテーマだった。
自分はその報告内容を十分理解できたわけではなく,「そんなものかなぁ」と軽く受け止めていたが,
後々頭に残ったのは,先生はマルクスで満たせないものをミルに求めたのだろう,ということだ。

言い換えると,こちらが経済学原理論に拘っているのは
ミルに限らず,他の理論的枠組みでは満たせないと思っているからだ。

それは何か,と言えば,
経済学原理論では,主に流通形態論で考察されている商品流通の無規律な動き,ということではないか。

このことは当たり前のことかも知れないが,
再認識したのは,今月半ば,若手経済学者と話していて,
「こんにち原理論を研究する意義」「社会的意義」を問われたからだ。

そのような問いにはこちらの意図を理解して貰えない壁の存在を感じる。
それは彼らとの間ばかりでなく,同じ批判的経済学を専攻する者の間に感じるし,大学人や姿勢の民との間にはより一層感じる。

彼は経済学でも応用分野を専攻しており,
講義では「アジっている」「アジしかしていない」(どうやら新古典派政策論の批判らしい)。
またブラック企業を糾弾するNPOにも係わっている。
そのような運動,実戦から見ると,「原理論の意義」が一層わからない,ということになるのは当然かも知れない。

しかし,実践活動で求められているのは事実認識でそこには学問はあまり関係ない。
賃金が不等に低いとか,処遇に労基法違反があるという事実を,第三者に否定しようがない形で示せることが重要で
それ以上の理論考察は必要とされていない。
場合にはよっては仲間内で見解の相違が露わになり,邪魔になる。

言い換えると,
現実に対し社会改良の必要があるとか
あるいは富の分配に不公平がある(搾取がある)と言えば済むことで,
それには経済学原理論は必ずしも必要ない。

マルクス以前にも,リカーディアン社会主義者の「労働全収論」(剰余価値を労働(力)の譲渡利潤(不等交換の結果)と捉え価値通りに交換すれば不平等はなくなるという主張)が存在していた。

経済学原理論に求められているのが,仮に搾取理論だとすれば,「ミル(その他の社会改良主義者)で十分」なはずだ。
しかし,分配を含む市場における不均質な動きの根本原因が流通主体の無規律な行動にあるとすれば,
単に分配の公平さや意思決定への参加を求めるだけでは不十分であろう。
たとえ富が現在以上に平等な形で分配されたところで,
その富を消費ないし投下する流通主体の動きは依然変らないからだ。

市場経済の全くない社会を想定すればともかく,
市場経済を所与の前提とすればこそ,
流通主体の無規律な動きとその影響には引き続き注視が必要であろう。




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