2014年3月26日水曜日

いずれはもうなり

昨日、ウォールストリートジャーナル日本語版サイトに載った「2極進む米国社会―「都会」と「田舎」が対立軸 」を読んだ。

アメリカでは、都会と田舎で宗教を含む生活文化に違い、断絶がみられ、それが支持政党の違いになって現れている、という。
具体的には1990年代に比して、田舎では共和党議員へ、逆に都会では民主党へ支持が集中するようになった。

その背景として、民間、公共設備いずれの面でも生活基盤が都市部に集中し、田舎ではそれらが撤退したり、若者が流出したりしていることが挙げられている。

わが国はどうか?
現在はオール保守化である。
地方で保守政党が強いのは以前からだが、
現在は、東京都知事選で田野神候補が一定の会を獲得したり、大阪市で都構想が頓挫しているにも関わらず、出直し選挙で主要政党が日本維新の会の橋下徹現市長への抗馬立候補を見送ったりしたように、保守への支持が強まっている。

しかし、「見放された層」の共同体志向と括れば、共通面が浮かび上がってくる。
アメリカの田舎は官民の投資や若者から見放された観があり、
日本からでは都市部に多い若年層の非正規雇用比率が高まっており、安定した仕事ないし内部労働市場から見放された観がある。

そこから醸し出されるのは、
見放された共同体への強い共鳴(遷宮されるお伊勢参りブームや靖国神参拝への共感)であり、
見放すものへの反発(「売国奴」レッテル)である。

こう考えると、アメリカで進行している二極化は、とても対岸の火事には見えない。
「いずれわが国も」ではなく、「すでにわが国も」である。
株式投資に「まだはもうなり」という格言があると聞く。
意味はかなり違うようだが、慢心は禁物
という意味では似ているにではないか。

保守的感情が人間誰しも保有する共同体帰属意識なら、気に止めることもないが、
おもに市場経済に起因する生活基盤の構造的な劣化であれば、
自然発生的な、反射的な意識に解決を委ねず、
意識的な対応が必要であろう。

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