2023年3月14日火曜日

経済源論第3篇の理論的位置付け

  前回,経済原論の3篇川迫英に興味を覚えていることを述べて一ヶ月近く経った。
 この間いろいろ論文を読み,ノートを作って見たものの,余り進展していない。
 しかし,この勉強したことをまとめて置くことは重要である。
 勉強したことと言えば,経済源論第3篇の理論的位置付けである。


 経済源論第3篇の位置付けを考えるとき,そのタイトルの違いがまず目に付くであろう。
 宇野弘蔵の『経済原論』は分配論であったが,山口重克『経済学原論講義』は競争論であった。小幡道昭『経済原論』およぶお弟子さん等のさくら経済原論研究会『これからの経済原論』はともに機構論である。
 その内容を知っている研究者はまず分配論とは剰余価値の分配と直ちに理解するいう意味であろうと推測されるが,通常,分配と言えば,純生産物ないし価値生産物(v+m)の分配であろう。
 そのため,宇野原論では第3篇の冒頭で以下のように断り書きしている。
第一篇で資本主義経済の一般的前提をなす商品、貨幣、資本の流通形態を明らかにし、第二篇でその物質的基礎をなす生産過程を究めたわれわれは、第三篇でその特殊歴史的原理をなす分配関係を展開することができる。資本主義社会の分配関係は、しかし前篇末にも述べたように年々の新たなる生産物を社会の構成員の間に単に分配するというのではない。いかなる社会でもそうであるが、分配せられる年々の生産物がいかにして生産せられたかということと関係なく分配せられるものではない。資本家的に生産せられたものは、資本家的に分配せられざるを得ない。資本家的に生産せられたものを他のなんらかの基準によって公平に分配するということは、一時的には、或いは部分的には行い得るにしても、永続的に、或いは全面的に行い得ることではない(旧『原論』:253)
 「資本家的分配」とは諸資本の競争を通してであろう。

 しかし,宇野原論は第3編ないし原論自体を「資本の商品化」,すなわち資本物神の完成で終わらせようとしており,諸資本の競争による分配の話と外れている。
 この点を指摘したのが山口重克であり,山口の『経済原論講義』は第3編を「競争論」と銘打っており,第2編生産論との関係も次のように述べている。
第2篇と第3篇では,この産業資本によって全面的に担当され,編成されている社会的生産であるいわゆる純粋資本主義の社会的生産を想定して,その理論的再編成を行なう。その課題を編成過程の考察と編成結果の考察の2つに大別する(それぞれ第3篇,第2篇---引用者)。個別流通主体の無政府的な行動がその意図せざる結果として社会的生産を編成するその現実的な過程は第3篇の競争論で考察することにして,第2篇では(社会的生産編成の---引用者)結果を、しかもそのうちの編成が達成されている側面をいわば先取り的に分析することに課題を限定する(78)。
 ここでは「個別流通主体の無政府的な行動がその意図せざる結果として社会的生産を編成するその現実的な過程は第3篇の競争論で考察する」と述べてられちるが,第3篇において,社会的生産を編成する個別流通主体として登場するのは当初,個別産業資本のみである。産業資本を前提にしない商人資本や金貸資本は別として,商業資本は産業資本による流通過程委譲が説かれて後に登場するし,信用代位業務を「専門的に行なう資本」(226)である銀行資本はさらにその後である。
 つまり,フルスペックの競争の叙述が展開されるのは,商業資本や銀行資本等の競争機構が揃う第3篇の末尾であって,第3篇前半ではいわば「制約された」競争を叙述しているに過ぎない。社会的生産を編成するその現実的な過程そのものを叙述しているわけではない。その意味では引用の前半にあるように。純粋資本主義の社会的生産を想定してその「理論的再編成を行な」っているのである。

 こうしてみると,第3篇のタイトルとしては,分配論でも競争論でもなく,(競争)機構論,競争機構の展開論が相応しいであろう。
 但し,小幡道昭『経済原論』やさくら経済原論『これからの経済原論』の第3篇機構論がそれに相応しい内容になっているかはまた別問題である。

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