アソシエーション論一般だと話が大きくなるが,
いや実際はそっちに関心があるが,論じる理論次元の話に限れば,
疑問は「宇野派の議論にアソシエーション論が欠けていることは構造的に明らか」という点だ。
宇野派に限らず,理論から直接アソシエーション論が出て来ないのは,福祉国家論が原理論から直接出て来ないのと同様に思える。
福祉国家の一部である政治的同権化(労働者の政治的地位の向上,例えば普通選挙権)も理論からは直接導き出せないだろう。
労働組合もそうだ。
市場の理論から市場競争自体を阻害する結社,談合を導くのは難しい。
結局,価値法則なんて機能していない,という話になるからだ。古典派経済学に批判的だった初期マルクス段階なら別だが。。。
もちろんマルクスの『資本論』にも絶対的窮乏化論や「最期の鐘が鳴る」論もあるにはあるが,理論的展開とは言いがたいというのが宇野弘蔵以来の認識であろう。
その他,著者による紹介は
過渡期論 | ポストキャピタリズム論 | ||
久留間派 | アソシエーション論 | ? | |
宇野派 | 福祉国家論 | 市場社会主義論 |
しかし,
・ポスト・キャピタリズムとしては両派は同じ内容に行き着くのか?(そもそも理論から一義的に導けるのか)
・アソシエーションは共同体原理(人格的依存関係),いわゆる生産手段国有化論は非共同体原理(機能的関係)であり,接合可能なのか? (接合するとなると,いわゆる国有化論は共同体体制(人格的依存関係)になり,共同体と問題を共有する。
・共同体の人格的依存関係という問題点,所有権論(国有化論もその一つ)の問題点(失敗)はどのように克服されるのか?
という点に疑問を覚える。
「労働者のアソシエーション」というフレーズであたかも問題が解決したかのようだが,
・アソシエーションがどのように成立するのかという問題
・アソシエーション,あるいは共同体(人格的依存関係)は無前提に肯定されてよいか
という問題が残っているのではないか。