2022年3月15日火曜日

生産論と余剰論

  アソシエーション論の校了以降,その一つ前の論文の読み直してみた。
 論点設定の甘さ,説明の不備も目に付き,さらに練る必要を覚えたが,もう一つ検討すべきことは生産論の位置付けだ。

 生産論とは,形式的にいえば,宇野弘蔵が『資本論』第1部「資本の生産過程)の商品,貨幣,資本に係わる冒頭2篇の考察を社会的再生産を予定しない流通論,流通形態論として純化する反面として,第1部の第3篇以降と第2部「資本の流通過程」を,流通論に続く生産論として独立させた理論部分だ。
 とこの後を書き繋ごうとして10日近く経過したので,要点のみ。

 最近の剰余価値論を余剰論として組替える試み生産論ないし経済原論の枠組みと適合しないのではないか。

1.量的に一致しない
 余剰=剰余価値+労働力の価値とされているが,余剰を純生産物と言い換えるとき,そこには利潤,利子,地代を排除出来ない。しかし,生産論では労働力商品の価値を超える新生産物価値は産業資本の取得する剰余価値に限定されている。

2.余剰の分配を司る階級関係は資本・賃労働関係に限定されない。
 生産過程に投入される生産手段と労働力との回収のされ方の違い,本源的弾力性に余剰の発生根拠を求め,階級関係の存在により余剰分配の偏りを説くのが余剰論であるが,その場合,分配に与るのが資本・賃労働関係に限定される謂れはない。しかし,資本による生産過程包摂を主テーマとする生産論では資本・賃労働関係に限定されている。

3.資本・賃労働間の労働交換を示すだけでは資本による価値増殖を解明したことにはならない。
 価値増殖ないし剰余価値の発生が資本の下で労働者が行う生きた労働量Tと労働者が取得する総生活物資に対象化された労働量Btとの差として説明されているが、生産論では代表単数であれ、流通形態たる資本による剰余価値生産であって階級としての資本を扱っているわけではない。

 1.2.は余剰論では生産論と市場機構論の位相差がハッキリしなくなるのでは(その象徴が特別剰余価値規定の消失)という疑問であり,3.は流通形態論と生産論とが分断されているのではという疑問である。


2022年2月20日日曜日

微かな移動

  論文校正の時間を確保するために,講義資料は早めに作成し,採点に時間の掛かるまとめテストを最終回以前に出題していたのだが,2月に届くはずの初校ゲラが1月中旬に届き,採点と校正が完全に重なってしまった。

 しかし,そのお陰で,校正も最低限と割り切ることができたし,1月末には学務もほぼ終わって,時間に余裕が生じた。

 そこで次の論文を構想する意味で,この論文に限らず,最近論文で取り上げてきたことを振り返ってみた。
 結果,自分の関心が生産的労働から生産過程論に徐々に移っていることがよく分かった。
(と,この続きを書こうとすると,長くなり,またそのことが鬱陶しくなって何と半月くらい更新が延びた)

 今まで多様な労働の理論的把捉には経済学の初期から存在した生産的労働概念の再措定が必要である,と訴えてきた。
 しかし,学会の動向は全く逆に生産的労働概念の形式的理解,形骸化が進んでいる。
 その原因を探ってみると,生産的労働を規定する生産過程論自体の形骸化があった。
 (経済原論分野では,『資本論』に倣い,労働過程の生産物視点で捉え返しを生産過程と呼び,その構成要素として生産的労働を規定してきた(「この(労働過程の---引用者)全過程をその結果である生産物の立場から見れば,2つのもの,労働手段と労働対象とは生産手段として現われ,労働そのものは生産的労働として現われる」K.I,S.196)。
 ところが,今日では,生産過程および生産的労働を労働過程以前に自然過程の一部として設定する概説書や,商品論以前の序論で設定する概説書が主流になってきた。

 そこで,ここ2,3年はこのような生産過程の設定の仕方を批判してきた。このような仕方では,労働一般と生産的労働との区不生産的労働や価値形成労働を不生産的労働や価値形成労働が見落とされ,労働の多様性を理論的に把捉できない,と。 

 つまり,生産的労働規定の前提となる生産過程論の設定の仕方自体を問題として取り上げるようになっていた。

 このような理論的考察はまだまだ練る余地が大きいが,最近執筆した論文を振り返ると,問題はさらに大きく,生産論そのものの理解,理論的位置付けが問われているように思えてきた。

 生産過程ないし生産的労働の形式的理解,形骸化は今に始まったことではないが,生産過程を自然過程の一部として捉えたり,序論で生産過程を設定したりすることは,商品,貨幣,資本等流通形態を規定した後に設定する生産論,その一部としての資本の生産過程論の理解に問題があるからではないか,と考えてみたわけである。
(その理由は別稿で)

2022年1月29日土曜日

アッサリ終了

 1月24日(月) 「マルクスのアソシエーション論とその制約」の校正が済ませた。

  編集者からは「遅くとも2月上旬まで」と聞いていたため,締切日夜に投稿した当方は校正も最終グループの2月上旬だろうと予測して,担当科目のまとめシート(講義科目は毎回の確認問題のほか2,3回に分けまとめ問題をオンライン出題している)の出題期間,採点期間をずらして設定していた。思っていました。(後で考えると,英文査読をスキップしたので順位が上がったのかも知れません)
 他方,本務校では郵便集配所が別棟に集約され17時閉所となっているため,郵便チェックできない日が続いた。18日は学生の感染者が発見され2コマ目以降キャンパス入稿規制が敷かれていた,19日は会議授業が詰まっていた。
20日は振替休暇を取っていた。21日も当日の郵便が到着する昼過ぎに集配所を訪れ,初校到着に気付いたが,既にある科目のまとめシート採点に着手しており,校正を始めたのは22日(土)昼前になった。

 そのため,24日の校正締切り当日に投函するにしても実質3日しか残されていなかった。
 研究室においていた資料が必要な引用原典との照合は24日に回して,朱入れは土日2日間だ。

 とはいえ,年末の投稿以来,何度か読み返し,読み返す度に不備が目に付いたが,そもそも論文の構成は変えようがないし,展開不十分な点を補うにも校正で許される紙幅拡張は限られいる。校正の前の週までには,校正のポイントを2つに絞っていた。それぞれ論者の見解を原典に即して明確に示せているか,という点であった。

 内容上の朱入れは土日で済ませ,月曜日は引用原典との照合に当て,初稿ゲラのPDFを提出した(現物は当日投函したので,2日遅れの到着になった)。

 結局,校正は念入りにしなければと気構えていたが,日数が限られたため,小幅な変更・追加でアッサリ終わった。

 自分でも気付いた不備な点を一層掘り下げて次稿に繋げたい。


2022年1月18日火曜日

隙間を作って

  1月から2月初めは,授業の準備,後処理の他に,テストの作成,採点,単位評価など学期末の業務,恒例になっている春闘パンフレットに載せる「経済指標の解説」執筆,そして今回は論文校正の必要がある。
 しかし,校正は一校,二校がいつ届くか不透明なために,それ以外の業務について,スケジュールの隙間を見つけて準備する必要がある。
 もっと言うと,「隙間を見つけて」というより「隙間を作る」ことになる。
 業務それぞれには最終期限が決まっているが,早めに済ませることは可能なので,業務によってこちらが作業を行なう期限をずらすことによって隙間時間を作ることになる。

 こうしてこしらえた隙間時間に「経済指標の解説」の資料集めと執筆を集中して行ない,期限の14日(金)に提出した。

 後は残っている講義資料2回分の作成と課題の採点をしつつ,事前校正?を進めることになる。


2022年1月6日木曜日

穴埋め式

  冬休みの間,提出した論文にも不備が多々浮かんできた。

 構成自体は,これまでも種々悩み,何回か手を入れてきたが,今さら変更しようがない。しかし,局面毎には説明不足だったと思われる点は見過ごしにできない。原典との照合も不十分だった。そう考えると埋めるべき穴が山ほどある。

 他方で,二兎追いしてきこの数ヶ月,後回しにしてきたことも少なからずある。毎週の講義やその時々に発生したことをこなしてきたのは言うまでもないが,締切りが先のことはたいてい先送りだった。終盤の講義資料作成,期末テスト問題の作成,前期科目のまとめ,春闘パンフレットに載せる経済指標の解説。

 それぞれ期限が異なるのが救いで隙間を見つけて穴を埋めてゆきたい。

2022年1月3日月曜日

国宝を読む

 元日は27インチ液晶画面で,2日は朝からサウナとリラックスルームを行き来して,Kindle端末でストーリーテーラー吉田修一による歌舞伎役者一族の起伏に富んだ物語『国宝』(上)(下)。





年末気分

  歴史が動く局面では現実が物語の上演のような感覚が生じる。  他方で,一人一人には歴史感覚はなく,日常の享楽や保身に現を抜かしている。  野口武弘『幕末気分』。

 Kindle本,読んでいる箇所が全体のどの位置かつかみにくい。

 リビングまでの

廊下が寒い大晦日だった。