10月下旬,ジョブ型雇用に関する解説論文の執筆を終え,次の仕事に向かうことにしたが,その後,堂々巡りを続けたからだ。
10月初旬の学会報告は,すでにその1ヶ月半前には予定稿を提出していたので,後は説明を寄り詳しくするだけのように思っていたが,そう簡単ではなかった。
予定稿以降,報告当日まで報告用スライド,あるいは配布資料を作る過程で再認識したことは,今回の報告の理論上の意義は「生産論の再発見」にある,ということだった,
生産論は宇野弘蔵が『資本論』を批判的に検討した結果,提示した経済原論の三篇構成の1つだ。
『資本論』が冒頭商品論で価値の実体を抽出したのに対し,商品,貨幣,資本の諸章を社会的再生産との関連が保障されていない流通主体の純粋に私的な行動展開を分析する場,「流通論」に限定すると同時に,『資本論』1部の労働生産過程論以降,および第2部資本の流通過程を,資本が生産過程を包摂する態様を分析する「生産論」として独立させた。
したがって,生産論は宇野の着想を継承する論者の経済原論には存在するものの,『資本論』および資本論体系を忠実に,あるいは基本的に受け継ぐ論者の経済原論には生産論という構成は存在しない。
これに対して,剰余価値論の余剰論への組み替えを主張する論者の場合,その経済原論のテキストには生産論が存在するものの,実際の展開では余剰の発生を総労働T>労働者全体で取得する総生活物資Btと階級単位で説き,個別資本の行動に即した説明をしていない,また余剰発生をT,tと労働時間単位で叙述するに止まり,価値の移転,再生産として語っていないため,流通形態論ないし流通論と生産論との接点が示せないでいる。いわば「宙に浮いた生産論」になっている。
そこで,生産論の積極的意義を今一度開示することにしようとしたわけだが,そこで躓き逡巡が始まった。生産論の意義は広範に亘り,取り上げるためには相当の準備が必要だ。どこまで踏み込むべきか,だけで2,3週間費やすことになった。