アソシエーション論の校了以降,その一つ前の論文の読み直してみた。
論点設定の甘さ,説明の不備も目に付き,さらに練る必要を覚えたが,もう一つ検討すべきことは生産論の位置付けだ。
生産論とは,形式的にいえば,宇野弘蔵が『資本論』第1部「資本の生産過程)の商品,貨幣,資本に係わる冒頭2篇の考察を社会的再生産を予定しない流通論,流通形態論として純化する反面として,第1部の第3篇以降と第2部「資本の流通過程」を,流通論に続く生産論として独立させた理論部分だ。
とこの後を書き繋ごうとして10日近く経過したので,要点のみ。
最近の剰余価値論を余剰論として組替える試み生産論ないし経済原論の枠組みと適合しないのではないか。
1.量的に一致しない
余剰=剰余価値+労働力の価値とされているが,余剰を純生産物と言い換えるとき,そこには利潤,利子,地代を排除出来ない。しかし,生産論では労働力商品の価値を超える新生産物価値は産業資本の取得する剰余価値に限定されている。
2.余剰の分配を司る階級関係は資本・賃労働関係に限定されない。
生産過程に投入される生産手段と労働力との回収のされ方の違い,本源的弾力性に余剰の発生根拠を求め,階級関係の存在により余剰分配の偏りを説くのが余剰論であるが,その場合,分配に与るのが資本・賃労働関係に限定される謂れはない。しかし,資本による生産過程包摂を主テーマとする生産論では資本・賃労働関係に限定されている。
3.資本・賃労働間の労働交換を示すだけでは資本による価値増殖を解明したことにはならない。
価値増殖ないし剰余価値の発生が資本の下で労働者が行う生きた労働量Tと労働者が取得する総生活物資に対象化された労働量Btとの差として説明されているが、生産論では代表単数であれ、流通形態たる資本による剰余価値生産であって階級としての資本を扱っているわけではない。
1.2.は余剰論では生産論と市場機構論の位相差がハッキリしなくなるのでは(その象徴が特別剰余価値規定の消失)という疑問であり,3.は流通形態論と生産論とが分断されているのではという疑問である。