学会報告原稿の構成が定まらないまま,〆切まで1ヵ月,半月,10日と経っていった。そんな折,一緒に分科会報告を行うS氏より報告原稿を提出した,とコピーが届いたので,お礼を述べる形で報告の見通しを語ることになった。
前便は,更新が間延びした理由,言い訳を述べようとして,採点手間取った試験の話ばかり
になった。
しかし,更新が伸びたのは何も学務の幼児ばかりではない。
9月半ばの学会報告の構制について見直し,迷いが生じていたのが大きな要因だ。
学会の問題別分科会,3名の報告の1一人として招かれたのは,労働価値説を社会的再生産の見地から物量体系に即して説いている小幡理論や置塩理論とは対照的に、未だに投下労働価値説にこだわっている変わった論者としてであろう。
こちらもそんな偏狭者、ドンキーホンテ扱いを承知のうえで引き受けている。
その上で、報告エントリー時の趣旨書に記し、ここでも紹介したように、物量体系に即した搾取論だけでは、1)資本としての価値増殖,価値の姿態変換を示したことにはならず、資本による生産過程包摂の分析に名手いないこと、2)労働の客観性を所与しているために、 多様な労働の分析に必要な労働の主査性を明らかにできないという問題点を指摘しようとしている。
しかし、そののことは小幡理論が置塩理論と同じという意味ではない。
もちろん様々な点で違いがあるのは当然であるが、こと価値論として違いをどのように説くか、でしばらく論文を読み返し、ノートを作り直すという作業に追われていたのである。
その点について、完全に構成が固まったわけでもなく、ここで長々と記すことははばかれるが、簡単に示すと、
小幡先生が「マルクスを組み立てる」という2016年の論文で示された4つの論点のうち、譲与価値論に変わる余剰論、投下労働価値説に変わる客観的労働蘆雪について、それ以外の2点、すなわち貨幣の実在する市場論(価値内在論)と産業予備軍の常駐する労働市場論が大きく影響を与えているのではないか、ということである。
とりわけ小幡先生の独創とも言える価値内在論は,生産を自然過程の一部と捉える独自の見解とも相俟って,他の数理系価値論以上に,労働量決定の客観性を強調するものになっている。 (この項続く)
またまた更新が延びた。
第3回まとめシートの出題形式にういて選択式の予定を短い記述式に換え、その採点に手間取っていた。
担当する各科目は評価を1回の期末テストで行うのではなく、初回ガイダンス以外計14回行う確認問題と、単元ごとのまとめシート3回の得点合計元に行っている。
毎回の確認問題は,正しいもの、不適切なものを1つ選べという選択式2問、時に空欄補充だが、まとめシートは第1回のみ空欄補充で、第2回が論述式あるいは短く答える記述式、第3回は空欄補充ないし記述式としている。
選択式である確認問題が正答率が高いのと同様、空欄補充問題も設題について教員が作成した答案、文章に適切な用語を埋めてゆけばよいのでので正答率が高い。空欄が10個あれば、9割弱の学生は誤答が2個いないに収まる。
しかし、論述式はそうはゆかない。
問いに対し、結論を示すだけではなく、その結論を導くために、予め何と何を論じなければならないか,自ら構成を考えなければならない。構成が思いつく学生の答案と結論のみの答案では得点に大きな差が出る。さらに,残念ながら,設問の意味を読み誤った答案も見受けられる。毎回の確認問題と同様、未提出者と区別するために最低1,2点は出しているが、それっきりである。
今期も、すでに第2回まとめシートで論述式ないし記入式の問題を出して丁寧に採点しているので、第3回は簡便な方式で済ますつもりでいた。
しかし、まとめシート2で得点にあまりに得点に差があるように思えたので、第3回も短い記述式だが、学生自ら説明してもらう形式にした。そのため時間が割かれた。
結果としては第2回と大差はないようにも思えるが、ユニバーサルか、大衆化したといっても大学の専門科目である以うな、試みを繰り返す必要があるのではないだろうか。
お誘い頂いていた秋の全国大会分科会報告は未だ決まらないのかなぁ,と不安に思って,学会HP>大会HPと辿ってゆくと,名前が載っていた。既に5月末には直接の申込者に連絡があったようだ。(その経緯は省略)
報告「剰余価値論は不要か」の趣旨はエントリー時に示した。
物量体系から余剰発生を示し搾取の存在証明とする理論は,
2はかねて主張してきたことであり,今後9月1日の締切までに1及び1と2の関連について詰めてゆくつもり。
といっても報告本文の執筆はずっと後で差し当たりは論点構成を練ることに努める。
1の論点を思いつくままに並べると,
論文のリライトをさらに続けることになった。
「新統合論」とは,経済原論第3篇,競争論ないし機構論における超過利潤概念を,従来,生産論で展開されたいた特別剰余価値概念のように説いている。
同一部門内で複数の生産条件が並存していても,優等な,新生産条件が普及すれば超過利潤は消滅する,と。
その弊害として,生産論の流通論との不接合(端的には可変資本概念の空洞化),資本における生産力志向の展開不全,平板な競争像の3点を挙げた。
すると,宇野弘蔵も新技術が普及すれば超過利潤は消滅すると説いているというコメントがあった。
しかし,新技術普及による超過利潤消滅は,超過利潤消滅の一特殊ケースに他ならない。
超過利潤の消滅=優等な生産条件(で生産された,他よりも低い個別的価値)が市場価値を規定するのは優良な生産条件だけで商品の社会的需要を満たせるからで,それだけ需要が収縮し,中等ないし劣等な生産条件を用いた資本はマイナスの超過利潤となる(平均利潤が得られない)ために生産を控えるケースであろう。〔需要が回復すれば,優等な生産条件だけでは需要を満たしきれなくなり,中等ないし劣等な生産条件が市場価値を規定し,それ以上の生産条件を要した資本には超過利潤が復活する。〕
これに対し,新技術普及による超過利潤消滅はその特殊ケースである。というのも,新技術普及には時間が掛かる,また常に新たな技術が生み出され,元の新技術も中等以下の技術になり常に超過利潤が発生するからであり。
超過利潤消滅を,その一特殊ケースである新技術普及でしか説かないのも「新統合論」たる所以である。
超過利潤を特別剰余価値的に説くから,機構論における市場価値論は新旧2つの生産条件か設定されず,しかも新技術が普及し旧方法が淘汰される方向でしか生産条件の並存が説かれない,諸資本の競争が説かれない。
新統合論の弊害の3番目に挙げた平板な競争像とはこのことである。
その一例として,市場価値論に続く地代論では絶対地代が土地の生産性の差異からではなく,土地所有者間の「結託」という非市場的要因から説かれていること(土地の生産性較差を踏まえた資本の競争が捨象されていること)を挙げた。
すなわち,差額地代が動力源としての落流の蒸気機関との生産性較差からのみ説かれている,言い換えると土地の生産性較差による差額地代が説かれず,優等な土地への第2次投資によって劣等地への差額地代第Ⅱ形態発生も含む利用されるすべてお土地への地代発生が説かれなくなり,土地所有それ自体に基づく地代,絶対地代が差額地代第Ⅱ形態を経由せず,土地所有者間の「結託」という非市場的要因から導出するしかなくなっている。
すると,差額地代第Ⅱ形態は説かれているとのコメントを受けた。
確かに説かれているが,絶対地代を説いた後である。むしろ何のために説いているのか不明な状態になっている。〔お弟子さんの原論では削除〕
そこでは,土地の生産性較差を設定した上で,第2次投資の生産量も示している。そして「社会的需要が(1) 以上になると, B1が耕作に引き込まれ,最劣等条件となる」などと,社会的需要の動向により市場価値を規定する生産条件が遷移することが説かれいる。
社会的動向による規定的生産条件の遷移を認めるならば,なぜ複数制三条件並存の一般論である市場価値論でそれを設定しなかったのだろうか?〔地代論は生産受験が制約された自然条件である点でその特殊例〕
結局,余剰論は剰余価値を階級単位で説いているために,資本を絶対的剰余価値の生産から相対的剰余価値の生産へと誘う特別剰余価値概念が生産論から放逐され,機構論の超過利潤概念と統合されたために,市場価値論は新旧2つの生産条件が並存していても新技術の普及過程という一方向の競争でしか捉えられず,地代論でも絶対地代の導出の際には差額地代第Ⅱ形態,言い換えると土地の生産性較差が設定されてなかったのであろう。しかしながら,社会的需要の動向と無関係に資本蓄積が決定されないのでは「市場」価値論にならないから,絶対地代導出後に申し訳程度に土地の生産性較差が説かれたのであろう。
そして研究者もこのような論調で講義を受ければ,教科書で教えられれば,社会的動向により市場価値を規定する生産条件が変異する,超過利潤消滅は一時的ケースという説明が筆者独自の「独特な見解」としか映らないのであろう。
まさに「三つ子の魂,百までも」である。
こんばんは。。。です。