論文のリライトをさらに続けることになった。
「新統合論」とは,経済原論第3篇,競争論ないし機構論における超過利潤概念を,従来,生産論で展開されたいた特別剰余価値概念のように説いている。
同一部門内で複数の生産条件が並存していても,優等な,新生産条件が普及すれば超過利潤は消滅する,と。
その弊害として,生産論の流通論との不接合(端的には可変資本概念の空洞化),資本における生産力志向の展開不全,平板な競争像の3点を挙げた。
すると,宇野弘蔵も新技術が普及すれば超過利潤は消滅すると説いているというコメントがあった。
しかし,新技術普及による超過利潤消滅は,超過利潤消滅の一特殊ケースに他ならない。
超過利潤の消滅=優等な生産条件(で生産された,他よりも低い個別的価値)が市場価値を規定するのは優良な生産条件だけで商品の社会的需要を満たせるからで,それだけ需要が収縮し,中等ないし劣等な生産条件を用いた資本はマイナスの超過利潤となる(平均利潤が得られない)ために生産を控えるケースであろう。〔需要が回復すれば,優等な生産条件だけでは需要を満たしきれなくなり,中等ないし劣等な生産条件が市場価値を規定し,それ以上の生産条件を要した資本には超過利潤が復活する。〕
これに対し,新技術普及による超過利潤消滅はその特殊ケースである。というのも,新技術普及には時間が掛かる,また常に新たな技術が生み出され,元の新技術も中等以下の技術になり常に超過利潤が発生するからであり。
超過利潤消滅を,その一特殊ケースである新技術普及でしか説かないのも「新統合論」たる所以である。
超過利潤を特別剰余価値的に説くから,機構論における市場価値論は新旧2つの生産条件か設定されず,しかも新技術が普及し旧方法が淘汰される方向でしか生産条件の並存が説かれない,諸資本の競争が説かれない。
新統合論の弊害の3番目に挙げた平板な競争像とはこのことである。
その一例として,市場価値論に続く地代論では絶対地代が土地の生産性の差異からではなく,土地所有者間の「結託」という非市場的要因から説かれていること(土地の生産性較差を踏まえた資本の競争が捨象されていること)を挙げた。
すなわち,差額地代が動力源としての落流の蒸気機関との生産性較差からのみ説かれている,言い換えると土地の生産性較差による差額地代が説かれず,優等な土地への第2次投資によって劣等地への差額地代第Ⅱ形態発生も含む利用されるすべてお土地への地代発生が説かれなくなり,土地所有それ自体に基づく地代,絶対地代が差額地代第Ⅱ形態を経由せず,土地所有者間の「結託」という非市場的要因から導出するしかなくなっている。
すると,差額地代第Ⅱ形態は説かれているとのコメントを受けた。
確かに説かれているが,絶対地代を説いた後である。むしろ何のために説いているのか不明な状態になっている。〔お弟子さんの原論では削除〕
そこでは,土地の生産性較差を設定した上で,第2次投資の生産量も示している。そして「社会的需要が(1) 以上になると, B1が耕作に引き込まれ,最劣等条件となる」などと,社会的需要の動向により市場価値を規定する生産条件が遷移することが説かれいる。
社会的動向による規定的生産条件の遷移を認めるならば,なぜ複数制三条件並存の一般論である市場価値論でそれを設定しなかったのだろうか?〔地代論は生産受験が制約された自然条件である点でその特殊例〕
結局,余剰論は剰余価値を階級単位で説いているために,資本を絶対的剰余価値の生産から相対的剰余価値の生産へと誘う特別剰余価値概念が生産論から放逐され,機構論の超過利潤概念と統合されたために,市場価値論は新旧2つの生産条件が並存していても新技術の普及過程という一方向の競争でしか捉えられず,地代論でも絶対地代の導出の際には差額地代第Ⅱ形態,言い換えると土地の生産性較差が設定されてなかったのであろう。しかしながら,社会的需要の動向と無関係に資本蓄積が決定されないのでは「市場」価値論にならないから,絶対地代導出後に申し訳程度に土地の生産性較差が説かれたのであろう。
そして研究者もこのような論調で講義を受ければ,教科書で教えられれば,社会的動向により市場価値を規定する生産条件が変異する,超過利潤消滅は一時的ケースという説明が筆者独自の「独特な見解」としか映らないのであろう。
まさに「三つ子の魂,百までも」である。
0 件のコメント:
コメントを投稿