2024年6月10日月曜日

余談ですけど

  6月8日,立教大学で開かれた経済理論学会関東部会に参加した。
 書評風の第Ⅰ報告で取り上げられた著書の寄贈を受けていたこともあるが,秋の全国学会問題別分科会報告とも関連すると思われたからだ。(分科会報告はエントリーしただけでまだ決まっていないが,適わなかったら論文にするだけだ)

 実際の報告や質疑の中心が関心のある論点とは違っていったため,発言せずじまいだったが,分科会報告を準備する上で考えさせられることがあった。

 それは「流通過程の不確定性」に対置して生産過程(に投入される労働)を「確定的」とみなしていることへの疑問だ。
 前回述べた3つの論点の内の「1.流通論と生産論との不接合」にも係わる。

 不確定性と確定性で流通過程と生産過程が峻別されるばかりでなく,労働時間が技術的に確定的な投入産出関係に規定されていることから,流通論=価値論,生産論=労働時間論と切断されると,資本による社会的な生産過程包摂を説くことが出来るのか疑問を覚える。

 実際,さくら原論では,「資本の生産過程」「資本の価値増殖過程」という視角がなく,生産論から不変資本,可変資本,剰余価値(率)等の概念が駆逐されている。

 しかし,生産論を労働時間の問題に限定してしまうと。「資本の下の労働過程」を分析しても資本の価値増殖には結び付けられないため,労務管理的な話に止まり,経済原論にとっては「余談ですけど」になってしまうのではないか。

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