2024年6月26日水曜日

分科会報告本決まり

  お誘い頂いていた秋の全国大会分科会報告は未だ決まらないのかなぁ,と不安に思って,学会HP>大会HPと辿ってゆくと,名前が載っていた。既に5月末には直接の申込者に連絡があったようだ。(その経緯は省略)

 報告「剰余価値論は不要か」の趣旨はエントリー時に示した。

 物量体系から余剰発生を示し搾取の存在証明とする理論は,

  1. 余剰の源泉を労働に求める剰余価値実体論に止まり,如何に形成されるかという剰余価値形態論を欠く,
  2. 労働の客観性を所与としているため,
    a.自己目的的な面もある家庭内の労働を賃労働と同質の定量的生産的労働に限定している,
    b.定量的労働を量的確定性の高い価値形成労働に限定し,
    併せて多様な労働の理論的な把捉を困難にしている。

 2はかねて主張してきたことであり,今後9月1日の締切までに1及び1と2の関連について詰めてゆくつもり。

 といっても報告本文の執筆はずっと後で差し当たりは論点構成を練ることに努める。
 1の論点を思いつくままに並べると,

  1. 【歴史性】搾取を表現する際の単位となる財,ニューメレールは労働でなくてもよいとする労働価値説批判に対して,労働の普遍的特性を主張するだけで良いか。商品経済に限定されない普遍的な属性がなぜ商品価値に繋がるのか不明だからだ。
  2. また搾取の成立を説くだけでは不十分だ。資本主義社会では搾取が非権力的に,契約自由の原則に基づく労働力商品の売買の結果として発生しているからだ。したがって,市場のルールに従って剰余価値が発生していることを示す剰余価値形態論が不可欠となる。
  3. 【価値特性】労働力商品は,資本主義固有という意味での歴史的特殊性ばかりでなく,資本が価値の姿態変換を続けるなかで,本人の手にあるときのみ価値を有するという労働力商品の価値特性は重要。
  4. 【多様性,多層性】社会的再生産,あるいは人間と自然との物質代謝過程である労働過程を出発点とすると,労働はすべて同質的に映るが,目的物をハッキリさせ,ある物の生産過程として捉え返すと,定量性のある労働とない労働,量的技術的確定性の高い労働とそうではない労働の区別が明確になるのではないか?
  5. 【商品所有者性】労働力商品概念は,価値増殖という面ばかりではなく,賃金労働者の行動に「より高く売りたい」という商品所有者性を認める点でも重要ではないか。特に労働者構成において,同じラインについて集団的に労働するブルーカラー労働者よりも個々人に一定の裁量性があるホワイトカラー労働者の比率が増大しているこんにちでは重要ではないか。 


 

2024年6月20日木曜日

三つ子の魂,百までも

  論文のリライトをさらに続けることになった。

 「新統合論」とは,経済原論第3篇,競争論ないし機構論における超過利潤概念を,従来,生産論で展開されたいた特別剰余価値概念のように説いている。
 同一部門内で複数の生産条件が並存していても,優等な,新生産条件が普及すれば超過利潤は消滅する,と。

 その弊害として,生産論の流通論との不接合(端的には可変資本概念の空洞化),資本における生産力志向の展開不全,平板な競争像の3点を挙げた。

 すると,宇野弘蔵も新技術が普及すれば超過利潤は消滅すると説いているというコメントがあった。
 しかし,新技術普及による超過利潤消滅は,超過利潤消滅の一特殊ケースに他ならない。
 超過利潤の消滅=優等な生産条件(で生産された,他よりも低い個別的価値)が市場価値を規定するのは優良な生産条件だけで商品の社会的需要を満たせるからで,それだけ需要が収縮し,中等ないし劣等な生産条件を用いた資本はマイナスの超過利潤となる(平均利潤が得られない)ために生産を控えるケースであろう。〔需要が回復すれば,優等な生産条件だけでは需要を満たしきれなくなり,中等ないし劣等な生産条件が市場価値を規定し,それ以上の生産条件を要した資本には超過利潤が復活する。〕
 これに対し,新技術普及による超過利潤消滅はその特殊ケースである。というのも,新技術普及には時間が掛かる,また常に新たな技術が生み出され,元の新技術も中等以下の技術になり常に超過利潤が発生するからであり。
 超過利潤消滅を,その一特殊ケースである新技術普及でしか説かないのも「新統合論」たる所以である。

 超過利潤を特別剰余価値的に説くから,機構論における市場価値論は新旧2つの生産条件か設定されず,しかも新技術が普及し旧方法が淘汰される方向でしか生産条件の並存が説かれない,諸資本の競争が説かれない。
 新統合論の弊害の3番目に挙げた平板な競争像とはこのことである。
 その一例として,市場価値論に続く地代論では絶対地代が土地の生産性の差異からではなく,土地所有者間の「結託」という非市場的要因から説かれていること(土地の生産性較差を踏まえた資本の競争が捨象されていること)を挙げた。
 すなわち,差額地代が動力源としての落流の蒸気機関との生産性較差からのみ説かれている,言い換えると土地の生産性較差による差額地代が説かれず,優等な土地への第2次投資によって劣等地への差額地代第Ⅱ形態発生も含む利用されるすべてお土地への地代発生が説かれなくなり,土地所有それ自体に基づく地代,絶対地代が差額地代第Ⅱ形態を経由せず,土地所有者間の「結託」という非市場的要因から導出するしかなくなっている。

 すると,差額地代第Ⅱ形態は説かれているとのコメントを受けた。
 確かに説かれているが,絶対地代を説いた後である。むしろ何のために説いているのか不明な状態になっている。〔お弟子さんの原論では削除〕
 そこでは,土地の生産性較差を設定した上で,第2次投資の生産量も示している。そして「社会的需要が(1) 以上になると, B1が耕作に引き込まれ,最劣等条件となる」などと,社会的需要の動向により市場価値を規定する生産条件が遷移することが説かれいる。
 社会的動向による規定的生産条件の遷移を認めるならば,なぜ複数制三条件並存の一般論である市場価値論でそれを設定しなかったのだろうか?〔地代論は生産受験が制約された自然条件である点でその特殊例〕

 結局,余剰論は剰余価値を階級単位で説いているために,資本を絶対的剰余価値の生産から相対的剰余価値の生産へと誘う特別剰余価値概念が生産論から放逐され,機構論の超過利潤概念と統合されたために,市場価値論は新旧2つの生産条件が並存していても新技術の普及過程という一方向の競争でしか捉えられず,地代論でも絶対地代の導出の際には差額地代第Ⅱ形態,言い換えると土地の生産性較差が設定されてなかったのであろう。しかしながら,社会的需要の動向と無関係に資本蓄積が決定されないのでは「市場」価値論にならないから,絶対地代導出後に申し訳程度に土地の生産性較差が説かれたのであろう。

 そして研究者もこのような論調で講義を受ければ,教科書で教えられれば,社会的動向により市場価値を規定する生産条件が変異する,超過利潤消滅は一時的ケースという説明が筆者独自の「独特な見解」としか映らないのであろう。 

 まさに「三つ子の魂,百までも」である。


2024年6月10日月曜日

学外講師への返信

 こんばんは。。。です。


 こんばんは。安田@前山形大です。
 先日は講義の報告を頂き有り難うございました。
 先月末〆切の原稿を抱えていましたので,返信がすっかり遅れてしまいました。

 今年度の「地域社会論」については4月半ば廊下ですれ違ったKさんより例年並みの履修者を集め無事スタートしたとの連絡を受けていました。
 彼は某大学で経験のある地域関連授業のプロパーですので,授業運営はつつがなく行われるものと思っています。

 むしろ自分の講義を振り返ると,最終回のまとめでもっと踏み込んだ提案ができていればという反省があります。
 特に昨今のように,地方から人口流出は女性の方が顕著である状況では,山形の素晴らしさをアピールするだけでなく,地域社会における,暮らしのあり方,大仰に言えば,「男性片働きモデル」について考える機会を設けても良かったのかな,と思っています。
 というのも女性の都市流出には,地方の方が男女役割分担意識が根強く,管理職登用の道が狭く,家計補助的労働が多いことが背景にあるように思っているからです
 また,社会科学としては,人口政策,外国人労働者の処遇など国の政策も射程に入れるべきだったと反省しています。

 もちろん現場レベルでのニーズの発見が起点であることには変わりありません。
 今後とも「地域社会論」へのご協力をお願いいたします。

 2024年6月9日(日)

二分法への疑問

  最近喧伝されている,流通の不確定性と生産の確定性という対置,二分法に強い違和感を覚える。

 生産に関わる労働はすべて客観的で確定的であろうか。

 例えば,山口原論で出て来る「無体の生産手段」のうち,生産過程間の調整を司る「調整効果」や,直接生産には関わらない技能教育や照明(の調整)など「労働補助効果」は所定の生産物量から一義的にその量が決まるわけではない。生産的労働ではあっても不確定的と言える
 さらに生産でも流通でもない家庭内の労働やNPOの労働はどのように位置付けられるのであろうか。
 賃金をもらっていないだけで生産的労働と同じだろうか。
 確かにそれらの中には賃金をもらっていないだけで生産ないし流通における労働と同じ定量的な生産的労働も存在する。特に組織内で行なわれる場合,労働相互の連関の必要上,定められた時間内に定められた生産物量を算出することが求められる。
 しかし,家事労働ないしNPOの労働すべてが定量的な労働ではない。
 相手の要求に寄り添うように半ば無制限に時間を掛ける労働もある。

 これらは労働ではないのであろうか。

 確定的生産と不確定的流通の二分論では済まないように見える。

余談ですけど

  6月8日,立教大学で開かれた経済理論学会関東部会に参加した。
 書評風の第Ⅰ報告で取り上げられた著書の寄贈を受けていたこともあるが,秋の全国学会問題別分科会報告とも関連すると思われたからだ。(分科会報告はエントリーしただけでまだ決まっていないが,適わなかったら論文にするだけだ)

 実際の報告や質疑の中心が関心のある論点とは違っていったため,発言せずじまいだったが,分科会報告を準備する上で考えさせられることがあった。

 それは「流通過程の不確定性」に対置して生産過程(に投入される労働)を「確定的」とみなしていることへの疑問だ。
 前回述べた3つの論点の内の「1.流通論と生産論との不接合」にも係わる。

 不確定性と確定性で流通過程と生産過程が峻別されるばかりでなく,労働時間が技術的に確定的な投入産出関係に規定されていることから,流通論=価値論,生産論=労働時間論と切断されると,資本による社会的な生産過程包摂を説くことが出来るのか疑問を覚える。

 実際,さくら原論では,「資本の生産過程」「資本の価値増殖過程」という視角がなく,生産論から不変資本,可変資本,剰余価値(率)等の概念が駆逐されている。

 しかし,生産論を労働時間の問題に限定してしまうと。「資本の下の労働過程」を分析しても資本の価値増殖には結び付けられないため,労務管理的な話に止まり,経済原論にとっては「余談ですけど」になってしまうのではないか。

2024年6月9日日曜日

3つの論点

 この間授業の準備,後処理だけをしていたような気がする。
 というのも,3月半ばから先月締めきりの論文リライトに向けて走り続けた感があるので,すぐには次のことに取りかかれなかったのだ。

 論文では,機構論ににおける市場価値論の超過利潤規定を従来は生産論で説かれていた特別剰余価値規定のように説く見解(「新統合論」と呼んでいる)の影響,問題店を3点挙げた。

 一々説明すると長くなるので,見出し風に列挙すると,

  1. 流通論と生産論の不接合,断絶
  2. 資本の生産力志向の埋没
  3. 平板な競争像

 お誘いいただいた秋の全国大会,問題別分科会「資本主義社会の基礎理論」が決まれば,これらをさらに掘り下げることになるだろう。