先週末,学会問題別分科会での報告を終えた。
当日朝から咳が止まず,宿舎に戻って体温を測ると極めて高熱。2日目は欠席し翌日地元急患センターで治療を受け,以後静養に努めてきたが,2,3日で平熱に戻った。今週から平常復帰の予定。
問題別分科会は3名の報告者が関連する報告を行い,相互にコメントし合うという体裁をとったが,議論が噛み合ったわけではなかった。特に自分の報告は趣旨が理解されたようには思えなかった。
しかし,9月1日報告本文を投稿してから当日まで構成を練る過程で,また当日の質疑の中で大きな気付きが2,3あった。
- 数理マルクス経済学の影響で,搾取論が社会的再生産視角からの説明,例えば「マルクスの基本定理」(剰余労働の必然性)で済まされ,資本循環に即した,資本の価値増殖の説明が省略される傾向が目立っている(これを前稿では,また報告でも「価値・価格二元論」と指摘した)
- これと相即するように,宇野理論,特に小幡理論では,価値論の展開が流通論で済まされる傾向が強くなった。流通論,特に冒頭商品論で価値水準の安定性が説かれる傾向が顕著になった(これを報告では「流通生産二元論」と指摘)。
- 価値水準形成の説明が流通論,冒頭商品論で完結する傾向と生産論における資本の価値増殖論の形骸化という傾向が合わせ鏡のように呼応して進んでいた。
問題はある世代以降,この傾向が当然のことのように受け止められ,その特異性が理解されていないことである。
宇野が価値実体抽出の場を資本の生産過程論に求めたのは価値の価格からの乖離とその修正が資本の生産過程を背景において始めて可能という理解があった。
この点からすれば,価値水準の形成は資本による生産過程の包摂,資本による価値生産物(労働力商品の価値+剰余価値)の形成の説明を通してしか解明出来ないはずである。
言い換えると,先の2つの傾向は,学問の発展を無視し,むしろ逆行していることになる。
しかし,ある世代にはそのことを改めて説明しないと伝わられなくなっている。
一言で言えば,世代間ギャップであるが,学問の発展は先行研究との関係で始めて明らかになるのであるから,それを無視して論じられることは釈然としない。
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