2024年9月23日月曜日

表の改訂

 世代間ギャップで当たり前のことも通じない,など前便では愚痴めいたことを瑠瑠述べたが,そんなことを言っても始まらないので,現在の価値論状況をどう捉えているか報告時に遡って整理しよう。以下の表は9/5時点での見取り図を9/14報告資料を基に書き換えたものである。
    小幡理論
「流通生産二元論」
数理マルクス経済学
「価値価格二元論」
生産論(搾取) 価格 ①③物量体系(社会的再生産視角)
「マルクスの基本定理」(剰余労働の必要性)
価値 社会的再生産視角に止まる→剰余労働の指摘に止める=不変/可変資本,剰余価値概念放棄,表式論も〔②投下労働価値説棄却〕(宇仁他[10]小幡[16]さくら[19])
資本循環視角→不変/可変資本概念による剰余価値論〔②投下労働価値説維持〕(置塩[88]八木[06]小幡原論)
流通論(資本) ④価値内在説 同じ商品「同じ価値」
→売り急がず価値安定
 A.「何でも買える」貨幣は同種大量商品を前提
 B. ③客観価値説≒生産価格に裏打ちされているから。
←売り手にとって「同じ価値額」(内在/事前主観)と生産価格(外在/事後客観)のすり替え
←価値(流通論)と労働(生産論)の分断(関係不明)
価値=労働(社会的再生産視角)に止まる
→「増加」ではなく「自己増殖」する 資本概念に到達しない
①から④とは,小幡[2016]「マルクス経済学を組み立てる」で取り上げられた4つの主要命題を指す。
 この表では,小幡理論に対して「価値価格二元論」であると同時に「流通生産二元論」と指摘していることになる。
 価値を商品論の問題に限定しているから,生産論の価値増殖には触れなくなったという関係にある。
 しかし,そうなると価値増殖ないし剰余生産物形成と資本の運動との関係は明らかではなくなる。
 資本は単なる資金,資産,設備ではなく,「価値増殖の運動体」とは価値論を報じる理論では一致する規定である。
 だとすれば,(1)〔「価値価格二元論」に対して〕剰余労働の存在を指摘するだけでなく,資本の運動,価値の姿態変換に即した価値増殖を説く必要があるが,生産論を社会的再生産視角に限定する限り,(資本の循環運動を説けないので)それができないでいる。
 (2)〔「流通生産二元論」に対して〕資本主義社会の歴史的理解としても,商品経済の領域が単に社会的に拡大したと言うだけでなく,労働力商品を起点に,言い換えると資本・賃労働関係を中心に社会的再生産が編成されていることを示す必要があるが,それは剰余労働の指摘では済まず,剰余生産物が資本の運動,価値の姿態変換に即して剰余価値の形成として説かれる必要がある。
 価値論=流通論,(剰余)労働論=生産論という分離では意味をなさないわけである。

平熱回復するも

  先週末,学会問題別分科会での報告を終えた。
 当日朝から咳が止まず,宿舎に戻って体温を測ると極めて高熱。2日目は欠席し翌日地元急患センターで治療を受け,以後静養に努めてきたが,2,3日で平熱に戻った。今週から平常復帰の予定。

 問題別分科会は3名の報告者が関連する報告を行い,相互にコメントし合うという体裁をとったが,議論が噛み合ったわけではなかった。特に自分の報告は趣旨が理解されたようには思えなかった。

 しかし,9月1日報告本文を投稿してから当日まで構成を練る過程で,また当日の質疑の中で大きな気付きが2,3あった。

  • 数理マルクス経済学の影響で,搾取論が社会的再生産視角からの説明,例えば「マルクスの基本定理」(剰余労働の必然性)で済まされ,資本循環に即した,資本の価値増殖の説明が省略される傾向が目立っている(これを前稿では,また報告でも「価値・価格二元論」と指摘した)
  • これと相即するように,宇野理論,特に小幡理論では,価値論の展開が流通論で済まされる傾向が強くなった。流通論,特に冒頭商品論で価値水準の安定性が説かれる傾向が顕著になった(これを報告では「流通生産二元論」と指摘)。
  • 価値水準形成の説明が流通論,冒頭商品論で完結する傾向と生産論における資本の価値増殖論の形骸化という傾向が合わせ鏡のように呼応して進んでいた。

 問題はある世代以降,この傾向が当然のことのように受け止められ,その特異性が理解されていないことである。
 宇野が価値実体抽出の場を資本の生産過程論に求めたのは価値の価格からの乖離とその修正が資本の生産過程を背景において始めて可能という理解があった。
 この点からすれば,価値水準の形成は資本による生産過程の包摂,資本による価値生産物(労働力商品の価値+剰余価値)の形成の説明を通してしか解明出来ないはずである。
 言い換えると,先の2つの傾向は,学問の発展を無視し,むしろ逆行していることになる。
 しかし,ある世代にはそのことを改めて説明しないと伝わられなくなっている。

 一言で言えば,世代間ギャップであるが,学問の発展は先行研究との関係で始めて明らかになるのであるから,それを無視して論じられることは釈然としない。

2024年9月5日木曜日

一旦終了

  8月31日,9月1日と〆切が続居たため,後者,学会報告本文の仕上げは突貫工事になってしまった。前者〆切まで1週間,後者は棚上げ状態となり,前者が終わってから後者の仕上げには1日しか残っていなかったからだ。

 もちろん大筋のドラフトはあったものの、取り上げる論者の主張をすために原典に当たって正確に引用する必要があり,一つ一つに時間を取ってしまった。

 大筋は前回,S氏への返信で示したとおりだ。

 二年前の学会報告でも小幡氏の剰余価値論の余剰論への組み替えを検討し,昨年の学会報告も余剰論における特別剰余価値概念の超過利潤概念への統合を検討していたたので,いわばその続きであった。

 今まで小幡余剰論を検討してきたので,今回コーディネータの吉村氏に報告参加を誘われた際も喜楽に分会報告を引き受けてしまった,
 分科会は2,3の報告を関心を集めやすいように同一テーマで括る、いわばパッケージで提供するものだが,報告相互は甘利関係ないことが多い。
 しかし,今回の問題別分科会「資本主義社会の基礎理論」では3名の報告者が相互にコメントし合うというスタイルをとる。

 今回は小幡道昭氏(東大名誉教授)が自ら最新の小幡道昭理論を報告され,置塩理論を代表して関根順一氏(九州産業大学)がこれまでの価値論争のまとめを報告される。
 関根氏も参加されるので,単に小幡理論の検討では済まない。
 そこで,考えたのが前回紹介したように,小幡理論と数理系マルクス経済学は共通面もあるし,異なる面もあるということだ。
 この点を説明すると話が長くなるので,学会当日のスライドで用いる予定の見取り図で示すと以下のようになる。

    小幡理論 数理系
生産論(搾取) 価格 ①③物量体系(社会的再生産視角)
「マルクスの基本定理」(剰余労働の必要性)
価値 社会的再生産視角に止まる→剰余労働の指摘に止める=不変/可変資本,剰余価値概念放棄,表式論も〔②投下労働価値説棄却〕(宇仁他[10]小幡[16]さくら[19])
資本循環視角→不変/可変資本概念による剰余価値論〔②投下労働価値説維持〕(置塩[88]八木[06]小幡原論)
流通論(資本) ④価値内在説 同じ商品「同じ価値」→売り急がず価値安定
 A.貨幣「何でも買える」機能は同種大量商品を前提とするから
 ←一物一価を超えた同一価値額の根拠不明 
 B. ③客観価値説(生産論)に裏打ちされているから。
 ←生産論から価値論を排除した意味不明
価値=労働(社会的再生産視角)に止まる
→「増加」ではなく「自己増殖」する 資本概念に到達しない
 価値「増加」ではなく「自己増殖」とは,労働力商品に投下された資本,可変資本の「可変」たる所以は単に資本価値が増加したではなく,新たに生み出されたという意味だ(労働力商品は売り出す本人の下でのみ価値を有し,売られた段階で一旦価値を失うため,労働力商品の価値部分も含め新たに生み出す必要がある)。
 問題は,ドラフト状態から丸1日で仕上げたため,価値論の積極的意義の提示が手薄,有り体に言えば「尻すぼみ:」になってしまったことである。
 この点は8月24日開催の仙台経済学研究会でも指摘されたことでもあり,報告までの10日間でさらに詰める必要がある。