2020年9月30日水曜日

二分法で良いか?

 更新が一ヶ月以上空いた。

 この間,大学院改組上の問題が持ち上がったり,基本的に対面授業となる後期の授業準備を進めていた。
 基本対面授業と言っても,三密を避けるために,列を1つ空ける必要があったり,資料の配付やレスポンスカードの回収に工夫が必要であったりする。また,それでも履修登録者数が教室定員を超えた場合,オンライン授業に移行する必要がある。

 講義の準備は,そのような授業形態の検討ばかりではない。
 2017年度の改組によって2単位科目が基本となり,経済原論も,経済原論1と同2に分割された。
 当初は元の通年授業を単純に前半,後半で分けていたが,今年度から,原論1で原論の概要を一通りお話しし,同2で主な論点を詳しく解説してみることにした。
 そのため,いわゆる価値形態論は原論2(後期)の冒頭に回し,価値形態の展開と価値形態論争の2回に分けて解説することにした。さらにもう1コマ追加して,3-4週からなる1単元に括ろうと考え,これまで解説してこなかった『資本論』商品論第4節の「商品の物神性」も解説してみることにした。
 そこでは,ロビンソン・クルーソーや中世領主農奴制,自由人のアソシエーションを例に人格的依存関係とは異なる物象的依存関係が解説されている。

 解説していて,以前ここで披瀝した共同体理解への疑問と同様のことを覚えた。
共同体経済,あるいは人格的依存関係で統一された社会が望ましいか,ということである。
 長くなりそうなので,一言で言えば,依存関係から切り離される面を認めない限り,自由人には受け容れがたいのでは,という疑問である。
 もっと言えば,人格的依存関係にあることが望ましいのか,ということである。古代や中世のような身分社会を思い描いてみれば容易に想像つくであろう。
 もちろん,商品経済のような物象的依存関係が望ましいと言っているわけではない。
二分法による社会区分で将来を展望するのにはムリがある,ということである。

2020年8月24日月曜日

結末後が長い

 日曜日の夜は時間を持て余すのか、ジム帰りにまたも映画音楽作曲家エンニオ・モリコーネ追悼特集へ。『鑑定士と顔のない依頼人』。監督は前回と同じトルナトーレ。結末ついた後が長いのも同じ。蛇足と言っては失礼か。


 結末が付かなかったのが前日の報告。
 前日,8月22日(土)は午前バーチャルオープンキャンパスの溜川先生の模擬講義後の質問受付け役。午後は故馬渡尚憲東北大名誉教授が主催されていた仙台経済学研究会の第34回例会で「可変資本概念の変質」を報告。

 まだ構想段階でエントリーしたため,報告していて繋がりの悪さに気付く始末。
 収穫としては,
・搾取と収奪とは,ニュアンスの差を別にすれば,概念的に区別する意識が現在に限らず,以前から薄かったこと
・純生産物に労働者の生活資料を含めるのも一般的であること
を教えられた点。

  論文にするにはまだまだ勉強して補強が必要であり,結末後が長いことに変わりはなかった。

2020年8月20日木曜日

大旗

 先月くらいから映画鑑賞づいていaaる。平均すれば,年鑑賞回数1を切る人間がこの2か月で10年分以上鑑賞している。キッカケは毎日新聞オンラインニュースで知った『なぜ君は総理になれないか』。訪れた映画館では若尾文子映画祭を開催中と知り,『爛』『刺青』『華岡青洲の妻』。さらにその予告編で映画音楽家エンニオ・モリコーネ追悼特集が紹介され,『ニューシネマパラダイス』.。コロナ禍でどこにも出歩けなくなったせいかな。

 先週夜遅くパラダイスからてくてく20分掛けて帰宅すると大内秀明東北大名誉教授より『日本におけるコミュニタリアニズムと宇野理論』の寄贈。
 個人的には共同体原理やアソシエーションにさえ疑問を覚えるようになったが--無効無益という意味ではない--,大内先生が高齢をおしてコミュニタリアニズムという大旗を掲げられていることを尊敬し,刺激を受けている。

生煮え

 先月末,故馬渡尚憲東北大名誉教授が主催されていた第46回仙台経済学研究会の報告が2枠空いているという連絡を受けたので,「まだ形ができていない」と断りながら手を挙げてみたら,本決まりになった。

 8月22日(土)午後,Zoom開催。
 「可変資本概念の変質」

 可変資本概念が変質,あるいは形骸化し,一方で搾取と収奪との区別が薄れるなど概念的希釈化が進行し,他方で、価値形成労働の生産的労働化(生産費用化)が進んでいるのでは,という問題提起だ。

 未だ生煮え状態だが,同研究会は,今やほとんどの参加者が経済学説史専攻の方ばかりであり,搾取概念の生成,発展やマルクスの理論形成については疎いので,学史の方からアドバイス頂ければ,と思っている。

2020年8月9日日曜日

先は長い

 6月末,論文の刊行に目処を付けて以降,次のテーマに取りかかっているが,この間届いた学会誌の特集論文のテーマに触発されて関連する論文を読んだり,ノートを取ったりで,かなり横道に逸れてしまった。

 自身のテーマの方は,柱となる論点を挙げただけの段階。
 3つの論点を設定してみたものの,それぞれ掘り・練りが進まず,相互の関連も曖昧だ。
 学期末の様々な業務の合間に「論点だけノート」と睨めっこしている。
 お盆休み前の三連休も同じことを繰り返すことになりそうだ。

  朝昼晩,せいぜい1時間半か2時間。
 キーボード入力する実働時間はさらに短い。

 効率が悪い,ムダが多いと思うが,早々と結論を出していては碌なことがない,筋が浅い,第三者的には展開に無理があり理解を得られないという痛い体験が何度もあるので致し方ない。

 ところで,休日は朝昼晩通っている近所のドトールコーヒー。
 新コロナウィルスの感染が拡大して一時営業時間を極端に短縮し,徐々に拡大させ,カウンター席も椅子の数を減らして間隔を保っていたが,昨日辺りから椅子の数が戻り,席を空けなくなった。
 全国的には感染が再拡大しているのに。

 営業上の問題もあるだろうが,ワクチン未未開発の感染病対策は,比較しては不謹慎と言われるかもしれないが,論文構想と同じで,先を急ぐと意に反して完成が長引くことになりかねないことも考慮する必要がある。

2020年7月26日日曜日

残る疑問

 前々回,「ポストキャピタリズム」論が勉強になったことを述べ,最後に「物象化論とアソシエーション論の扱いや著者の貨幣の社会化論はまだ理解したとは言えず」と記した。

 アソシエーション論一般だと話が大きくなるが,
 いや実際はそっちに関心があるが,論じる理論次元の話に限れば,
 疑問は「宇野派の議論にアソシエーション論が欠けていることは構造的に明らか」という点だ。
 宇野派に限らず,理論から直接アソシエーション論が出て来ないのは,福祉国家論が原理論から直接出て来ないのと同様に思える。
 福祉国家の一部である政治的同権化(労働者の政治的地位の向上,例えば普通選挙権)も理論からは直接導き出せないだろう。
 労働組合もそうだ。
 市場の理論から市場競争自体を阻害する結社,談合を導くのは難しい。
 結局,価値法則なんて機能していない,という話になるからだ。古典派経済学に批判的だった初期マルクス段階なら別だが。。。

 もちろんマルクスの『資本論』にも絶対的窮乏化論や「最期の鐘が鳴る」論もあるにはあるが,理論的展開とは言いがたいというのが宇野弘蔵以来の認識であろう。

その他,著者による紹介は
  過渡期論 ポストキャピタリズム論
久留間派  アソシエーション論
宇野派 福祉国家論 市場社会主義論 
のように読める。

しかし,
・ポスト・キャピタリズムとしては両派は同じ内容に行き着くのか?(そもそも理論から一義的に導けるのか)
・アソシエーションは共同体原理(人格的依存関係),いわゆる生産手段国有化論は非共同体原理(機能的関係)であり,接合可能なのか? (接合するとなると,いわゆる国有化論は共同体体制(人格的依存関係)になり,共同体と問題を共有する。
・共同体の人格的依存関係という問題点,所有権論(国有化論もその一つ)の問題点(失敗)はどのように克服されるのか?
という点に疑問を覚える。
 「労働者のアソシエーション」というフレーズであたかも問題が解決したかのようだが,
・アソシエーションがどのように成立するのかという問題
・アソシエーション,あるいは共同体(人格的依存関係)は無前提に肯定されてよいか
という問題が残っているのではないか。

時代性

 学期末,さまざまなレポート等の処理で忙しいはずだが,
先週末は楽天イーグルスの試合を生観戦。
最近,コロナ感染が拡大しており,罹患も濃厚接触者になるのも怖かったが,感染者は今後拡大の一方と思うと,「今が最後のチャンスになりかねない」と考え,球場へ。
 18,19日の2試合,決Kは1勝1敗だが,内容は打てる限りで勝てるというBクラス野球(早速次の週は連敗街道)。

 24日には,毎日新聞の政治エッセイで紹介されていたのを読んで,突如,映画を観たくなった。
 「なぜ君は総理大臣になれないのか
 急遽ジム通いを20時半からの鑑賞にスイッチ。

 最近は劇場HPから座席指定,チケットもクレジット決済。

 そのHPに「若尾文子映画祭」のニュース。
 著名だが一度も映画を見たこともない女優の,1962年の映画を25日(土)21時から鑑賞。
 浮気,不倫はいつの時代でもだろうが,妻の座を争うに時代性を感じた。