2024年2月4日日曜日

なぜ生産的労働か・2

  前々回,なぜ生産的労働を用いるか論じた。
 価値論を用いて現代の多様な労働を理論的に把捉するには生産的労働概念の設定が必要という趣旨であった。
 しかし,中には価値論を奉じながら生産的労働概念を積極的に用いない,あるいはまったく用いない見解も存在する。というか,ほとんどがそうで,生産的労働概念の意識的適用を図っているのは私だけだ。
 ではそれらは多様な労働をどのように把捉しようとしているのか?

 多くは現代の多様な労働といっても家事労働,NPOの労働などを「単なる活動」と理解し,「労働」とは位置付けていないのではないか。

 生産的労働概念が古典派経済学の初期に出現したとき,売買益(値ざや)を利潤の源泉ととらえる重商主義経済学への批判という意味で,新価値,付加価値は生産されるという理解であった。つまり価値形成労働の表象としてであった。
 他方で,スミス以来,有体物を生産する労働が生産的労働という理解,物質基準(敬愛原論分野では資本主義的生産に限定されない普遍的規定という意味で本源的規定説)はあったものの,剰余価値を生産する労働が価値形成労働という付加価値基準(経済原論分野では資本主義的生産形態に固有という意味で形態規定説)が主流であった。
 出発点が新価値形成の有無であったから,生産的労働概念の適用はある労働が価値を形成する生産的労働か形成しない不生産的労働かに集中した。すなわち形態規定説に立脚すると,資本と交換される(資本の投下対象である)労働は剰余価値を生む生産的労働であるのに対して,収入と交換される(資本としては投下されない)労働は不生産的労働であった。しかし,賃金が支払われない家事やケア,ボランティアは資本との交換でも収入との交換でもなく,労働ではない「単なる活動」扱いであった。

 本源的規定説に立脚する場合は,家事労働も剰余価値を産まないという意味では不生産的労働を位置付けられるけれども,いわゆるサービス労働は一様に不生産的労働と位置付けられ,例えば私学の教育労働(形態規定説では生産的労働),家庭教師の労働(形態規定説では不生産的労働),親兄弟による学習指導の区別がつかないことになる。

 関心が価値形成,非形成にある限り,賃金が支払われない無体物の生産に関心が向けられることはなかった。そして,価値論の研究が進むにつれて,価値形成労働の表象に過ぎない生産的労働への関心は失せていったのである。生産的労働か否かという迂回的議論を通さなくても,価値形成労働の基準を明らかにすれば,価値を生むか否かを論ずることが可能になるからである。

 例外的に中川スミは,フェミニスト経済学からのマルクス批判に対抗する関係で,家事を「労働」と捉えていたけれども,生産的労働概念を活かせず,賃労働より「私事性のヨリ深い」労働としてしか位置付けられなかった。
 すなわち,家事労働が価値を生むか,また家事労働が労働力商品の価値に算入されるかという2つの問に対して,家事労働は賃労働に比し「私事性がより深い」労働であることを根拠に「否」と答えた。価値形成労働と言っても,賃労働はその産物である商品が売れて初めてのその社会的位置付けが判明する私的労働であり,共同体社会における労働や計画経済体制における労働のように初めからその社会的位置付けが保障された「社会的労働」ではない。賃労働とも異なり,その産物が市場で売られることにより社会的位置付けが確認されることすらない家事労働は賃労働よりも「私事性がより深い」から価値を形成しないし,労働力商品の価値にも算入されない,というのである。
 しかし,その労働が価値を形成するか否かと,労働力商品の価値に算入されるか否かとは理論的意味が異なる。有体物であれ無体物であれ,その産物が商品として市場に供されることのない家事労働が商品の属性である価値を生まないのは当然である。しかし,労働力商品の価値に算入されるか否かは別である。中川はクリーニングは労働力商品の価値を生むと認めている。しかし,家庭内の洗濯とは異なり,クリーニング労働については価値形成労働と認める論者もいれば認めない論者もいる。つまり,ある労働が価値を形成するか否かと労働力商品の価値に算入されるか否かは別の問題なおである。後者の労働力商品の価値に算入されるか否かは,第三者的に費用として計上できるか否か,つまり労働に定量性があるか否かで判断されるのであり,それが価値形成労働か否かとは別の文脈なのである。言い換えると,家事を労働と認めた中川には価値形成労働と区別された生産的労働という概念がない,ということになる。両者の別が理論的に整理されていなかったから,家事が価値を生むか否かと労働力商品の価値に算入されるか否かという角度の異なる質問に対し,賃労働より「私事性がより深い」という無内容な回答をしたのである。無内容と祠宇のは,家事労働が私事性の深いということの根拠が商品を生まないという意味では家事労働の定義と同義反復であるからである。

 生産的労働はその誕生時より価値形成労働の表象としてある買われてきたため,商品を生まない家事労働やNPOの労働には関心が向けられなかった。逆に家事労働に関心を向けた労働者は,生産的労働概念が掛けていたために,労働の価値形成問題と費用計上問題を区別できない状態,理論的混乱に陥っていた。


なぜ労働力商品なのか

 もう一つ,よく聴かれる,あるいはそう問われているように思うのは,なぜ労働力商品概念を用いるのか,ということである。
 労働力商品概念については相当の研究蓄積があるので,思いつくままに論じるわけには行かない。
 しかし,昨夏の研究会で数理派の中堅研究者は労働力商品概念を敢えて使わず,別の概念を用いる試みを論じていたので,むしろ労働力商品を使わないで資本主義経済を論じられるのか気になった。 

 その報告は,労働力は本人と不可分離なので売買不可能であり,むしろ労働力請求権が売買されるという主張であった。
 労働力商品概念のポイントは,法的には雇用とされることを(労働力の)商品売買と捉え返している点であろう。

  1. 雇用は封建社会までの人格的拘束関係からは自由である。資本主義固有の生産関係を表わすことになる。
    現在,世界中で,従来フリーランスないし個人事業主と位置付けられていたギグワーカーを雇用として保護すべきか否かが問題になっているように,業務委託と雇用の違いは主に指揮命令権の有無にある(その他に労働としての対価性の有無,報酬が一定時間拘束した対価なら雇用)。業務委託の場合,求める業務(労働ないしその成果)の指示だけで,その遂行方法,場所等に本人の裁量性を認めている。これに対して,雇い主に指揮命令権を認める雇用は,労働の手順,場所の指示,管理を伴う。
  2. しかし,雇用のままでは,資本主義経済のメカニズムを表現できない。家庭内の執事の場合も雇用に含まれる。労働力の商品化とすることによって,それが収入との交換かそれとも資本との交換かを明確にできる。
    つまり,それ自体価値を持つ商品とすることによって資本主義的経済機構の叙述が可能となる。
  3. 資本・賃労働関係間で商品交換が行われると捉える場合,その商品が労働か,労働力かが問われる。
    労働の売買という理解では不等価交換によってしか価値増殖を説明できない。労働力商品の価値と労働の生み出す価値との差による価値増殖を説明するのが剰余価値論である。逆に言うと,剰余価値概念不要論とは価値増殖を権力関係,階級関係から説くこと,階級関係から収奪を説明することになり,形式的には自由式,契約の自由の原則を取りながら,価値増殖を果たす資本主義経済の特殊歴史性を明らかにできないであろう。
    労働力請求権の売買とする見解も同じである。そのポイントは労働力商品化,労働力商品の価値という概念を認めない点にあるから,剰余価値という概念を使っても使わなくても,階級関係から利潤の源泉を説明することになる。


 



2024年2月3日土曜日

なぜ生産的労働か

  レポート採点を含む生成評価が後1科目残っているが,ほぼ春休みに突入したので,これまでのことを振り返り,今後のことを考える材料にしたい。

 「なぜ(今更)生産的労働概念に拘るのか」と聴かれることがある。

 ここ10年近くそのことばかり発表してきたので「論文読んでくれ」と答えるのも億劫になるが,論文書き連ねても理解されていないとすれば,簡潔な回答を与える必要がある。


 一言で言えば,

価値論を奉じる経済学では,価値形成労働だけでは多様な労働を理論的に把捉できないからである。

  1. 価値形成労働だけでは,商品を生みながら価値を形成しない労働も,商品を生まないから価値を形成しない労働が価値非形成労働として一括されてしまう。また,商品を生まない労働,家事・ケア労働,NPOの労働の中にある違い,相手に寄り添う労働とテキパキとこなされることが求められる労働が価値非形成労働として一括してしまう。
  2. 生産的労働を価値形成労働とを分け,定量的労働と成果との間で量的技術的確定性の高い労働と区別することにより上の職別が可能となる。
    • 生産的労働とは普遍的な,言い換えると資本主義社会に限定されない生産過程という視角の下に設定される。同じく普遍的な概念,労働過程が人間労働の主体性を表現しているのに対して,労働過程を生産物視点で捉え返した生産過程では,主体性を強調する労働過程では人間労働の対象,純粋な客体と人間の「手の延長」として峻別されていた労働対象と労働手段が「生産手段」として一括されているように,主体的な人間労働も「生産的労働」として手段化したもとして捉えられる。これは言い換えると,自己目的性が強く,手段性の低い労働の存在を認めていることになる。不生産的労働である。資本の下の賃労働には自己目的性が強い不生産的労働は存立の余地が乏しいが,賃労働ではない労働,家事労働,ボランティア活動には相手との関係を重んじ,時間の許す限り寄り添いたいという労働,したがって定量性の乏しい不生産的労働が存在する。もちろん,家事労働もボランティア活動も,例えば被災者に一日100人分の食事提供など一定のサービスを達成するには,食材の運搬,整理,加工などにテキパキとこなす定量的労働,生産的労働が不可欠である。家族,被災者に時間の許す限り寄り添う定量性の乏しい不生産的労働ばかりでは所期の目的は達成できず,相手を失望させることになる。定量的生産的労働を土台に時間の許すかがり相手に寄り添遺体という自己目的的で定量性の乏しい不生産的労働も可能となる関係にある。
    • 他方,普遍的な生産的労働の定量性と区別して,成果との量的技術的確定性の高い労働を設定するということは,商品の価値を商品一般の属性としての広義の価値と価格変動の重心を規定するという意味での狭義の価値とに区別した上で,狭義の価値を形成する労働を追加供給が容易な,資本の下の単純労働,無駄を認めない資本の効率性原則で量的に締め上げられた,締め上げることが可能な単純労働に限定したということである。これによって同じく商品を生産する労働であっても,小生産者のような非資本によって投下される労働や単純労働とは言えない労働,熟練労働が価値非形成労働として摘出されることになる。
 

2024年2月1日木曜日

最終講義として

  1月26日,最終講義を行なった。
 15回のテーマの内,どこかを空けて,最終講義とした。
 何を話そうかと迷って「現代のワーキングプア」とした。
 当初は,経済原論における貧困の位置付け(絶対的窮乏化なのか循環的貧困なのか)から発展段階論(労働者の富裕化や企業定着化,熟練・不熟練の別,正規・非正規の別)を踏まえて現状分析へとつなげるべきだが,不勉強と時間的制約のため,現状の話にした。
 また格差と区別して貧困に絞った。自立して(保護がなければ)生活できないというのが貧困とすれば,格差は是正しなけばならないとは言え,格差があるだけでは自立できないとまでは言えない。
 あるいは「生活の遣り繰りが大変」レベルは今までと変らない。子どもを大学にやる,仕送りするのは労働者にとっては以前から大変だった。

 その意味での貧困をワーキングプア論を手掛かりに解説してみた。

 話が長くなるので粗筋のみ述べると,

  1. 後藤道夫のワーキングプア論は,ワーキングプア拡大の背景を,日本型雇用の解体・縮小による「現代のワーキングプア」発生に求める点に特徴がある(90年代までのワーキングプアは日本型雇用の枠外,「周辺的」存在だったとして)。
    しかし,日本型雇用の特徴,解体の判別基準を新卒一括採用,長期雇用,年功序列型賃金に用いたたために,2019年の論文では「現代のワーキングプア」を賃金の年功性が失われた男性ブルーカラー職業群に限定することになった。
    つまり年功性が維持されているホワイトカラーは除外され
    女性労働者は視野の外に置かれている。
    もともと「日本型雇用の範囲を100人以上規模企業の男性正規労働者と男女正規公務労働」とされていたため,働く女性の貧困は,日本型雇用とは無関係な旧来型のワーキングプアということになる。
  2. 橋本健二のアンダークラスは相対的貧困率を指標にすることによりワーキングプアの中心に単身女性がいることを浮かび上がらせた。
    まず労働者階級は賃金によって自身と子息の再生産が可能な存在であるのに対して,非正規雇用は再生産不能な賃金しか得られないとして労働者階級から分離し,アンダークラスと位置付けた。
    後藤のアンダークラスとは非正規雇用から学生や家計補助的な労働に止まる主婦パートを除いた900万人余りである。
    そのアンダークラスの中でも,高齢者や59歳以下の男性非正規労働者に対し,59歳以下の女性(すべて非婚女性)はより一層貧困率が高いことも明らかになった。
    しかし,非正規雇用であれ,なぜ賃金では自身と子息を再生産できないのか,は明らかではない。
  3. 他方,最低賃金に関する資料によれば,賃金の特に低い,最低賃金近傍者(最賃の1.1倍水準まで)は,一般労働者(フルタイム)よりも短時間労働者,短時間労働者の中でも女性労働者に多い。
  4. これは男性長時間労働,女性短時間路務言う「男性片働きモデル」という意味での日本型雇用が依然として健在であることを示しているのではないか。
    つまり「現代のワーキングプア」とは非婚女性,その4割がシングルマザーであり,日本型雇用の解体によって生じたのではなく,その残存によって存在が作り出されているのではないか。



2024年1月7日日曜日

2023年12月30日土曜日

貧困の所在

  更新が大幅に遅れた。
 学会報告を文章化することに難渋した。
 報告本文は9月中旬に提出していたし,そこでは詰め切れなかったこと,主に第3節も報告直前の1,2週間でかなりの程度練り上げた,と思っていたが,いざ文章にするとそう簡単には行かなかった。その他,報告後に回していた学務のことなどが降りかかって。。。
  その後も学務中心だった。1風邪で発熱風邪で発熱はなくても咳が止まらず2,3日静養せざるをえなかったという計算違いもありつつ,ようやく昨日3つ目目の採点を終えた。

 しばし時間ができたので改めて今後の研究を考えてみた。
 これまで発表した研究とは無関係,唐突に見えるかも知れないが,最近の関心を端的に表現すると,「貧困の所在」ということになる。

 これも最近ずっと頭をもたげていた問題でありながら,現時点ではまだ簡明には示せないので,箇条書きにしてみる。(ここまで記して3日経った。当たり前で,まだ詰めてもいないことを説明しようとするから足踏みして進まない。そこで無責任だが,終わりがない。現在の関心を結論風に示す)

  1. 現在,格差拡大とともに「貧困層の拡大」が喧伝されているが,内実は一様ではなく,資本・賃労働関係に起因するのは独身非正規雇用,特に女性が中心ではないか。
    炊き出し参加者増は単なる賃上げでは解消し得ない。丁寧な就労支援が必要。「下流老人」も年金等,社会保障の制度設計の問題。橋本健二早大教授のしてきされる「アンダークラス」とはパート主婦,学生バイトを除いた1千万人弱の非正規雇用であるが,うち高齢者は年金収入があり,貧困率は低い。59歳以下の非正規雇用も,女性の貧困率の方が著しく高い。
  2. 橋本氏は新中間階級(男性事務職,女性管理職が含まれる),労働者階級(男性ブルーカラー+平の女性事務職)を「貧困とは無縁」と位置付けられているが,では彼らはどこに問題を抱えていないのか。
    もちろん,働き方に裁量性が乏しいこともその1つであろうが,やはり「貧困」とは言えなくても,分配問題はあるであろう。それが大きな声にならない(もちろん労組は賃上げを第一に考えてはいるだろう)のは,彼らが収入を世帯単位で捉えているからではないか。
  3. 最初の女性単身非正規雇用の貧困も上の問題が根柢にあるのではないか。
    後藤道夫都留文科大学名誉教授は1990年代末の日本経済における大量リストラを背景に,90年代後半までのワーキングプアが日本型雇用とは無縁で生活保護と労働市場の間を行き来する存在であったのに対し,「日本型雇用の解体」によって生じたのが「現代のワーキングプア」と指摘された。しかし,その後の景気回復に合わせて,その対象を賃金が年功的でなくなったブルーカラー職業群に限定された。後藤氏は元々「日本型雇用」のメルクマールを新規一括採用,長期勤続,年功序列型賃金の3点に求められていたため,その解体論を事実上撤回することになった。
    ところで,日本型雇用の他の側面に「男性片働き型モデル」がある。女性は一般職として入職しても結婚退社し,その後は家計補助的パートに止まるものと想定されていたは家計補助を目的とする就労は,「年収の壁」を意識して「就業調整」する存在であり,「安い労働力」として重宝されることを受け容れてきた面がある。当人たちも,配偶者の年金賃金と併せた世帯収入で考えると,「貧困とは無縁」の生活であったからであろう。
    しかし,女性の社会進出の進展や若年層の未婚化,晩婚化の進展を考えると,世帯賃金が妥当性を有するとは思えない。
  4. つまり,「現代のワーキングプア」は日本型雇用が解体したからではなく,ワークライフの変化にも関わらず,未だ解体していないからこそ発生したのである。

2023年11月5日日曜日

講義資料の補充

  11月4日,価値論分科会出の報告を終えた。
  コメンテーター及び質問した下さった先生方にはお礼を述べたい。
 頂いた質問票(質問者による質問の要約)を参考にさらに内容を練ってゆきたい。

 しかし,この間ずっとこの件に没頭していた。
 6月西南部会の準備から,8月研究会報告,9月半ばの報告本文の提出,そして今回の準備とずっと追われてきた。第3節の論点設定がなかなか決まらなかった,迷走を続けたのでその感が強い。

 今回の報告のために作り溜めしていた講義資料も,ストックがほぼ尽きた。
 しばらくは講義資料の補充を進めながら,今回の報告を整理することにしたい。