2022年8月10日水曜日

ようやく?何がどうなったのか

  またまた更新が滞り1ヵ月経った。
 学期末で慌ただしかったこともあるが、秋の学会報告、しかと構成が定まらないうちにエントリーしたため、学期中もスライド上で論点構成を繰り返し入れ替え検討いた。

 そうこうするうちに8月。
  そうこうするうちに報告予稿の締め切りまで半月。
 ようやく構成を固めた。いや「腹を固めた」という方が正解か。

 小幡先生が「マルクス経済学を組み立てる」(2016)で提唱された剰余価値理論の余剰論の組み替えについて、余剰論と他の組み替え論点3つとの関係を踏まえながら、検討していく。

 報告における検討課題は差し当たり3つ。

 剰余価値理論の余剰論への組み替えによって

1.搾取はどのように説かれるのか?
 剰余価値理論は資本主義経済を対象にしている。労働力商品の価値を超えて労働の生み出す価値を剰余価値と規定しているからだ。しかし、余剰論の対象は資本主義経済に限定されない。普遍的に労働者に与えられる生活物資とそこから抽き出される生きた労働との間には意義的関係はない、本源的弾力性があることに余剰、純生産物発生の余地を見ている。
 では、資本・賃労働関係ではどのように余剰の発生が説かれるのか?

2.労働と価値との関係はどのように説かれるのか?
 「組み立てる」では労働生産物ではない労働力商品に投下労働価値説を適用することはできないとして、客観価値説が提示される。
 剰余価値論の場合、労働力商品概念を基軸にその価値とそれによって購入される生活資料に投下された労働という形で労働と価値とが関連づけられていた。
 では、余剰論ではどのような形で両者を結び付けるのか?

3.経済原論体系はどのように組み立てられるのか?
 マルクスの『資本論』の場合、冒頭商品論で2商品の交換関係から価値とその実体である抽象的人間労働が関連づけられていた。そのため「資本の生産過程」(『資本論』第1部のタイトル)から流通論が分離独立することはなく、また生産論の中に流通過程論が組み込まれることもなかった(マルクスが生前公刊したのは『資本論』第1部のみであり、その遺稿の中から「資本の流通過程」として第2部が、「資本主義的生産の総過程」として第3部が公刊された)。
 これに対して、抽象的人間労働の抽出(価値と労働の同定)を資本の生産過程で行った宇野弘蔵の場合、『資本論』第1部「資本の生産過程」における商品、貨幣、資本に関する規定を流通論として分離独立させ、それ以降の叙述および『資本論』第2部を生産論の中に組み込み、基本的に同3部に当たる分配論と合わせて3篇構成とした。
 余剰論における価値と労働の関連づけによってこの3篇構成はどのように変わるのか、が第3の検討箇所となる。


2022年7月5日火曜日

福留久大先生ご逝去の報に接す

 学部,大学院時代の恩師,福留久大先生がご逝去なさったとの報に接し少なからず動揺している。

 先生はキャンパスの異なる教養部に属されていたため,毎日のように接し,その延長で先生のプライベートな側面まで耳にする,というような良くある?師弟関係ではなかった。
 最初は学外の,市民を相手にした「資本論を読む」学習会で教えていただき,大学院時代には演習に参加させていただいたものの,厳しく指導いただいたわけではなかった。(出来が悪いので,指導を諦められていたのかも知れないが)
 むしろ身軸なのにいっぱしの研究者のように接していただいたり,助手終了後,非常勤講師の職を譲っていただいたりするなど物心両面でご支援いただいた。

 つまり研究内容のご指導よりも研究生活を励ましていただいた,普通の師弟関係とは違うという思いが強いのだが,大学の教師になってみると,大学の勉強は,本人が関心を頂かなくては先に進まないのだから,学問指導よりも学生を励ますことの方が大事であり,なぜ福留久大先生からあその方法を学ばなかったのかなぁと後悔することがある。

 学生指導について改めて先生からお話を聞きたかった。
 それこそ関心を抱いた自分が考えろ,という先生の教えかも知れない。

 今となってはひたすらご冥福をお祈りするほかない。

2022年6月11日土曜日

秋の学会報告

 更新が途絶えてブログというより個人的なメモになっている。

 秋の経済理論学会での報告申込みの期日がGW中にあり,分科会の自由報告にエントリーしたところ,先週22日に報告することが幹事会で承認されたとの連絡があった。

 申込時に記した報告たいとると概要は以下の通りである。

 報告タイトル「剰余価値論の余剰論への組み替えについて」

 報告概要「小幡道昭氏が「マルクス経済学を組み立てる」(2016)で提唱された剰余価値論の余剰の理論への組み替えの経済原論の枠組み(資本の価値規定,労働の同質性・量的規定,労働力商品規定)への影響を,3つの「余剰」(「貨幣の実在する市場」(商品の充満する市場),純生産物としての余剰,労働市場における産業予備軍常在)の違いに着目しながら検討する。」

 まだ構成も定まらないうちに手を挙げたので,概要もその時の考えに過ぎない。
 主な関心は余剰理論で経済原論の枠組みを維持できるのか,言い換えると資本主義経済の存立構造を理論的に示せるのか,ということにある。
 純生産物の発生を,労働者向け生活物資(いわゆる生活資料)の投入と支出される労働量との間の「本源的弾力性」で説き,分配の偏りを「階級関係」で説くという余剰理論は小幡氏の『経済原論』(2009年)で既に示されていた。
 しかし,『原論』では剰余価値概念も同時に説かれており,剰余価値論の余剰理論への「組み替え」には至っていなかった。
 その『原論』(2009)の枠組みは,「組み立て」(2016)における剰余価値論の余剰理論への組み替えという問題提起を経てなお維持できるのか,あるいはどのように変わるのかに大きな関心がある。


2022年4月29日金曜日

半日がかり

  火曜日ようやく抜刷到着。
 28日は大型連休の前に発送しようと作業を始めたら午前中一般掛かった。

2022年4月8日金曜日

問題意識が異なるのか?

 前稿「問題意識,問題関心」で記したことも抽象的でわかりにくかったであろう。

少し具体的に記してみる。

 まず1.問題意識の相違

 多様な労働を理論的に把握するための試みが現在2つある。

 一つは,人間活動のうち,一定の仮定で区切って,成果が正の場合「生産」,腑の場合「消費」と位置付け,消費部門における労働を生産部門における労働特別する試みである。さらに目的意識的な「労働」の他に,目的意識性を欠き不定型な活動として「非労働」概念を設定し,生産・消費と労働・非労働の組み合わせで生産における労働,消費における労働,生産における非労働,消費における非労働の4類型を示す試みである。

 もう一つは,労働過程の一要素としての労働そのものは主体相互のコミュニケーションを含むがゆえに必ずしも定量的とは限らないけれども,その一部,労働過程を成果である生産物視点で捉え返した生産的労働は定量性を帯びる,という見方である。

 片方は,労働そのものは生産であれ消費であれ量的性格を帯びているけれども,人間活動には労働の他に「休息や遊びのような,非労働と一括するほかない不定型な活動」がある,という見方である。

 他方は,労働それ自体には定量性はないけれども,特定の生産物・寮を念頭に置いた生産過程の絡み合いのなかで定量性を課される生産的労働がある,という見方である。

 この2つは多様な労働へのアプローチは全く異なる。

 これらは現代の諸労働への問題意識が異なるのだろうか。

 必ずしもそうとは言えない。

 というのも,どちらの見方も,ある論者の1995年の論文で示されていたからである(労働・博道は同じ論者の2009年の著書で出現)。
 どちらも同じ問題意識「製造過程における機械化・省力化の急激な進展のもとで、商業・金融などの市場活動やそれに随伴する運輸・通信といったサービスにますます多くの人間活動が吸収される傾向にある。と同時に、これまで市場とは異なる原理に依存してきた人間の心身に直接関連する、教育・医療や育児・介護などのさまざまな活動も他者の活動を通じて社会的に維持されるようになってきている。そしてこのような活動の場の推移とともに、その内容も大きな変化を遂げつつある。それに対して、従来の労働概念をそのまま当てはめようとすれば、そこからはずれた側面ばかりが目につくのは当然のことであろう。…それが賃金労働という形態をとるかどうかは別として、むしろこれまでの時代に比べてますます多くの時間を他人のために〈はたらく〉ことに費やしている観さえある。このようにみると、旧来の労働概念を固定してそれと異なる活動が増大したという方向で考えを進めるよりは、むしろ労働概念のほうを再開発するほうが、変容しつつある人間活動を包括的に理解する捷径であるように思われる。」から出発している。

 異なる見解,対立する見解だからと言って「問題意識が異なる」と視野の外に置いて良いはずがない。


問題意識,問題関心

 (前稿のような議論は,経済原論を先行しない者にはピンとこなかったであろう。こちらももう少し詰める必要がある)

  先行研究に批判的検討を加えると,問題意識,問題意識が異なる,というコメントを受けることがある。

 これに対しては,大別して2つないし3つの違和感を覚える。

  1. 本当に問題意識が異なるのか?
    原論の個々の論点には複数の見解があり得るが,それが問題意識の違いと言えるか?
  2. (上と裏表の関係にあるとも言えるが)特定の問題意識を持つとなぜそのような理論展開になる,と説明できているのか?
  3. (これも上と重なるが)同じ問題意識にあると称していても,原論の個々の論点では違いが生じているが,それらは相互に批判的に検討したうえで規定されているのか?

 これらについてしかと説明がなされない限り,上のコメントは批判を排除する内向きの,あるいは党派的コメントにしか見えないのである。

2022年3月15日火曜日

生産論と余剰論

  アソシエーション論の校了以降,その一つ前の論文の読み直してみた。
 論点設定の甘さ,説明の不備も目に付き,さらに練る必要を覚えたが,もう一つ検討すべきことは生産論の位置付けだ。

 生産論とは,形式的にいえば,宇野弘蔵が『資本論』第1部「資本の生産過程)の商品,貨幣,資本に係わる冒頭2篇の考察を社会的再生産を予定しない流通論,流通形態論として純化する反面として,第1部の第3篇以降と第2部「資本の流通過程」を,流通論に続く生産論として独立させた理論部分だ。
 とこの後を書き繋ごうとして10日近く経過したので,要点のみ。

 最近の剰余価値論を余剰論として組替える試み生産論ないし経済原論の枠組みと適合しないのではないか。

1.量的に一致しない
 余剰=剰余価値+労働力の価値とされているが,余剰を純生産物と言い換えるとき,そこには利潤,利子,地代を排除出来ない。しかし,生産論では労働力商品の価値を超える新生産物価値は産業資本の取得する剰余価値に限定されている。

2.余剰の分配を司る階級関係は資本・賃労働関係に限定されない。
 生産過程に投入される生産手段と労働力との回収のされ方の違い,本源的弾力性に余剰の発生根拠を求め,階級関係の存在により余剰分配の偏りを説くのが余剰論であるが,その場合,分配に与るのが資本・賃労働関係に限定される謂れはない。しかし,資本による生産過程包摂を主テーマとする生産論では資本・賃労働関係に限定されている。

3.資本・賃労働間の労働交換を示すだけでは資本による価値増殖を解明したことにはならない。
 価値増殖ないし剰余価値の発生が資本の下で労働者が行う生きた労働量Tと労働者が取得する総生活物資に対象化された労働量Btとの差として説明されているが、生産論では代表単数であれ、流通形態たる資本による剰余価値生産であって階級としての資本を扱っているわけではない。

 1.2.は余剰論では生産論と市場機構論の位相差がハッキリしなくなるのでは(その象徴が特別剰余価値規定の消失)という疑問であり,3.は流通形態論と生産論とが分断されているのではという疑問である。