2022年7月5日火曜日

福留久大先生ご逝去の報に接す

 学部,大学院時代の恩師,福留久大先生がご逝去なさったとの報に接し少なからず動揺している。

 先生はキャンパスの異なる教養部に属されていたため,毎日のように接し,その延長で先生のプライベートな側面まで耳にする,というような良くある?師弟関係ではなかった。
 最初は学外の,市民を相手にした「資本論を読む」学習会で教えていただき,大学院時代には演習に参加させていただいたものの,厳しく指導いただいたわけではなかった。(出来が悪いので,指導を諦められていたのかも知れないが)
 むしろ身軸なのにいっぱしの研究者のように接していただいたり,助手終了後,非常勤講師の職を譲っていただいたりするなど物心両面でご支援いただいた。

 つまり研究内容のご指導よりも研究生活を励ましていただいた,普通の師弟関係とは違うという思いが強いのだが,大学の教師になってみると,大学の勉強は,本人が関心を頂かなくては先に進まないのだから,学問指導よりも学生を励ますことの方が大事であり,なぜ福留久大先生からあその方法を学ばなかったのかなぁと後悔することがある。

 学生指導について改めて先生からお話を聞きたかった。
 それこそ関心を抱いた自分が考えろ,という先生の教えかも知れない。

 今となってはひたすらご冥福をお祈りするほかない。

2022年6月11日土曜日

秋の学会報告

 更新が途絶えてブログというより個人的なメモになっている。

 秋の経済理論学会での報告申込みの期日がGW中にあり,分科会の自由報告にエントリーしたところ,先週22日に報告することが幹事会で承認されたとの連絡があった。

 申込時に記した報告たいとると概要は以下の通りである。

 報告タイトル「剰余価値論の余剰論への組み替えについて」

 報告概要「小幡道昭氏が「マルクス経済学を組み立てる」(2016)で提唱された剰余価値論の余剰の理論への組み替えの経済原論の枠組み(資本の価値規定,労働の同質性・量的規定,労働力商品規定)への影響を,3つの「余剰」(「貨幣の実在する市場」(商品の充満する市場),純生産物としての余剰,労働市場における産業予備軍常在)の違いに着目しながら検討する。」

 まだ構成も定まらないうちに手を挙げたので,概要もその時の考えに過ぎない。
 主な関心は余剰理論で経済原論の枠組みを維持できるのか,言い換えると資本主義経済の存立構造を理論的に示せるのか,ということにある。
 純生産物の発生を,労働者向け生活物資(いわゆる生活資料)の投入と支出される労働量との間の「本源的弾力性」で説き,分配の偏りを「階級関係」で説くという余剰理論は小幡氏の『経済原論』(2009年)で既に示されていた。
 しかし,『原論』では剰余価値概念も同時に説かれており,剰余価値論の余剰理論への「組み替え」には至っていなかった。
 その『原論』(2009)の枠組みは,「組み立て」(2016)における剰余価値論の余剰理論への組み替えという問題提起を経てなお維持できるのか,あるいはどのように変わるのかに大きな関心がある。


2022年4月29日金曜日

半日がかり

  火曜日ようやく抜刷到着。
 28日は大型連休の前に発送しようと作業を始めたら午前中一般掛かった。

2022年4月8日金曜日

問題意識が異なるのか?

 前稿「問題意識,問題関心」で記したことも抽象的でわかりにくかったであろう。

少し具体的に記してみる。

 まず1.問題意識の相違

 多様な労働を理論的に把握するための試みが現在2つある。

 一つは,人間活動のうち,一定の仮定で区切って,成果が正の場合「生産」,腑の場合「消費」と位置付け,消費部門における労働を生産部門における労働特別する試みである。さらに目的意識的な「労働」の他に,目的意識性を欠き不定型な活動として「非労働」概念を設定し,生産・消費と労働・非労働の組み合わせで生産における労働,消費における労働,生産における非労働,消費における非労働の4類型を示す試みである。

 もう一つは,労働過程の一要素としての労働そのものは主体相互のコミュニケーションを含むがゆえに必ずしも定量的とは限らないけれども,その一部,労働過程を成果である生産物視点で捉え返した生産的労働は定量性を帯びる,という見方である。

 片方は,労働そのものは生産であれ消費であれ量的性格を帯びているけれども,人間活動には労働の他に「休息や遊びのような,非労働と一括するほかない不定型な活動」がある,という見方である。

 他方は,労働それ自体には定量性はないけれども,特定の生産物・寮を念頭に置いた生産過程の絡み合いのなかで定量性を課される生産的労働がある,という見方である。

 この2つは多様な労働へのアプローチは全く異なる。

 これらは現代の諸労働への問題意識が異なるのだろうか。

 必ずしもそうとは言えない。

 というのも,どちらの見方も,ある論者の1995年の論文で示されていたからである(労働・博道は同じ論者の2009年の著書で出現)。
 どちらも同じ問題意識「製造過程における機械化・省力化の急激な進展のもとで、商業・金融などの市場活動やそれに随伴する運輸・通信といったサービスにますます多くの人間活動が吸収される傾向にある。と同時に、これまで市場とは異なる原理に依存してきた人間の心身に直接関連する、教育・医療や育児・介護などのさまざまな活動も他者の活動を通じて社会的に維持されるようになってきている。そしてこのような活動の場の推移とともに、その内容も大きな変化を遂げつつある。それに対して、従来の労働概念をそのまま当てはめようとすれば、そこからはずれた側面ばかりが目につくのは当然のことであろう。…それが賃金労働という形態をとるかどうかは別として、むしろこれまでの時代に比べてますます多くの時間を他人のために〈はたらく〉ことに費やしている観さえある。このようにみると、旧来の労働概念を固定してそれと異なる活動が増大したという方向で考えを進めるよりは、むしろ労働概念のほうを再開発するほうが、変容しつつある人間活動を包括的に理解する捷径であるように思われる。」から出発している。

 異なる見解,対立する見解だからと言って「問題意識が異なる」と視野の外に置いて良いはずがない。


問題意識,問題関心

 (前稿のような議論は,経済原論を先行しない者にはピンとこなかったであろう。こちらももう少し詰める必要がある)

  先行研究に批判的検討を加えると,問題意識,問題意識が異なる,というコメントを受けることがある。

 これに対しては,大別して2つないし3つの違和感を覚える。

  1. 本当に問題意識が異なるのか?
    原論の個々の論点には複数の見解があり得るが,それが問題意識の違いと言えるか?
  2. (上と裏表の関係にあるとも言えるが)特定の問題意識を持つとなぜそのような理論展開になる,と説明できているのか?
  3. (これも上と重なるが)同じ問題意識にあると称していても,原論の個々の論点では違いが生じているが,それらは相互に批判的に検討したうえで規定されているのか?

 これらについてしかと説明がなされない限り,上のコメントは批判を排除する内向きの,あるいは党派的コメントにしか見えないのである。

2022年3月15日火曜日

生産論と余剰論

  アソシエーション論の校了以降,その一つ前の論文の読み直してみた。
 論点設定の甘さ,説明の不備も目に付き,さらに練る必要を覚えたが,もう一つ検討すべきことは生産論の位置付けだ。

 生産論とは,形式的にいえば,宇野弘蔵が『資本論』第1部「資本の生産過程)の商品,貨幣,資本に係わる冒頭2篇の考察を社会的再生産を予定しない流通論,流通形態論として純化する反面として,第1部の第3篇以降と第2部「資本の流通過程」を,流通論に続く生産論として独立させた理論部分だ。
 とこの後を書き繋ごうとして10日近く経過したので,要点のみ。

 最近の剰余価値論を余剰論として組替える試み生産論ないし経済原論の枠組みと適合しないのではないか。

1.量的に一致しない
 余剰=剰余価値+労働力の価値とされているが,余剰を純生産物と言い換えるとき,そこには利潤,利子,地代を排除出来ない。しかし,生産論では労働力商品の価値を超える新生産物価値は産業資本の取得する剰余価値に限定されている。

2.余剰の分配を司る階級関係は資本・賃労働関係に限定されない。
 生産過程に投入される生産手段と労働力との回収のされ方の違い,本源的弾力性に余剰の発生根拠を求め,階級関係の存在により余剰分配の偏りを説くのが余剰論であるが,その場合,分配に与るのが資本・賃労働関係に限定される謂れはない。しかし,資本による生産過程包摂を主テーマとする生産論では資本・賃労働関係に限定されている。

3.資本・賃労働間の労働交換を示すだけでは資本による価値増殖を解明したことにはならない。
 価値増殖ないし剰余価値の発生が資本の下で労働者が行う生きた労働量Tと労働者が取得する総生活物資に対象化された労働量Btとの差として説明されているが、生産論では代表単数であれ、流通形態たる資本による剰余価値生産であって階級としての資本を扱っているわけではない。

 1.2.は余剰論では生産論と市場機構論の位相差がハッキリしなくなるのでは(その象徴が特別剰余価値規定の消失)という疑問であり,3.は流通形態論と生産論とが分断されているのではという疑問である。


2022年2月20日日曜日

微かな移動

  論文校正の時間を確保するために,講義資料は早めに作成し,採点に時間の掛かるまとめテストを最終回以前に出題していたのだが,2月に届くはずの初校ゲラが1月中旬に届き,採点と校正が完全に重なってしまった。

 しかし,そのお陰で,校正も最低限と割り切ることができたし,1月末には学務もほぼ終わって,時間に余裕が生じた。

 そこで次の論文を構想する意味で,この論文に限らず,最近論文で取り上げてきたことを振り返ってみた。
 結果,自分の関心が生産的労働から生産過程論に徐々に移っていることがよく分かった。
(と,この続きを書こうとすると,長くなり,またそのことが鬱陶しくなって何と半月くらい更新が延びた)

 今まで多様な労働の理論的把捉には経済学の初期から存在した生産的労働概念の再措定が必要である,と訴えてきた。
 しかし,学会の動向は全く逆に生産的労働概念の形式的理解,形骸化が進んでいる。
 その原因を探ってみると,生産的労働を規定する生産過程論自体の形骸化があった。
 (経済原論分野では,『資本論』に倣い,労働過程の生産物視点で捉え返しを生産過程と呼び,その構成要素として生産的労働を規定してきた(「この(労働過程の---引用者)全過程をその結果である生産物の立場から見れば,2つのもの,労働手段と労働対象とは生産手段として現われ,労働そのものは生産的労働として現われる」K.I,S.196)。
 ところが,今日では,生産過程および生産的労働を労働過程以前に自然過程の一部として設定する概説書や,商品論以前の序論で設定する概説書が主流になってきた。

 そこで,ここ2,3年はこのような生産過程の設定の仕方を批判してきた。このような仕方では,労働一般と生産的労働との区不生産的労働や価値形成労働を不生産的労働や価値形成労働が見落とされ,労働の多様性を理論的に把捉できない,と。 

 つまり,生産的労働規定の前提となる生産過程論の設定の仕方自体を問題として取り上げるようになっていた。

 このような理論的考察はまだまだ練る余地が大きいが,最近執筆した論文を振り返ると,問題はさらに大きく,生産論そのものの理解,理論的位置付けが問われているように思えてきた。

 生産過程ないし生産的労働の形式的理解,形骸化は今に始まったことではないが,生産過程を自然過程の一部として捉えたり,序論で生産過程を設定したりすることは,商品,貨幣,資本等流通形態を規定した後に設定する生産論,その一部としての資本の生産過程論の理解に問題があるからではないか,と考えてみたわけである。
(その理由は別稿で)